日別アーカイブ: 2014/05/26

辺戸岬に立つ

沖縄 043

今年の1月、沖縄県庁から辺戸岬までドライブした。27度線について考えたいと思ったのだ。岬に人かげはまばらである。雨もよいで風が強く、岸壁にぶつかる荒波がときおり白い飛沫になって頭上にふってくる。

沖縄 028

与論島が思いのほか近くにみえる辺戸岬の突端に、よく手入れされた「祖国復帰闘争碑」(1976年)が海を背にして立っている。黒い石に刻まれた碑文「全国のそして全世界の友人へ贈る」は、高いトーンの文章ではじまっている。

「吹き渡る風の音に 耳を傾けよ 権力に抗し 復帰をなし遂げた大衆の乾杯の声だ 打ち寄せる波濤の響きを聞け 戦争を拒み平和と人間解放を闘う大衆の雄叫びだ」。

“鉄の暴風”はやんだが、1952年4月28日のサンフランシスコ条約で、沖縄は米軍の支配下に組み込まれた。碑文は「米軍の支配は傲慢で 県民の自由と人権を蹂躙した 祖国日本は海の彼方に遠く 沖縄県民の声は空しく消えた われわれの闘いは 蟷螂の斧に擬せられた」と続く。

「見よ 平和にたたずむ宜名真の里から 二七度線を絶つ小舟は船出し舷々相寄り勝利を誓う大海上大会に発展したのだ 今踏まえている土こそ 辺戸区民の真心によって成る沖天の大焚火の大地なのだ」。

27度線をはさんでおこなわれたその大焚火と海上大会の様子を、瀬長フミさんが記録している。少し長くなるが以下に引用してみよう。「一九六四年八月一四日、行進団百名余、国頭村辺戸の北国小学校に五時ごろ到着、小学校の教室を解放してもらって落ちついた。今夜の焚火大会や明日の海上大会への参加のため、各地からぞくぞく学校に集まり、四百名余になった。・・・暗くなった辺戸岬の広っぱは四百人余りの人びとが輪を作り歌をうたっていた。

中央に大きな丸太がうず高く積み上げられ、すぐ火がつけられるように準備されていた。海はまっくらで、海なりがきこえていた。八時、与論島にポッと灯が見えると、こちらもパッと燃え上がった。みんなワッーと歓声を上げ、両手をあげて本土の灯をみたり、こちらがわの灯をみたり、その喜びはなんとも表現しえない気持ちであった」。

その夜、参加者はほとんど寝ずに朝を迎える。「午前六時、国頭村宜名真から出発、他の隊列は奥という海岸からでて二十七度線へ向けてポンポンひびかせて走った。・・・だれかが『見えた、ほら本土の船だ』と叫んだ。ほんのり見える黒点を見失うまいとみんなじっとにらみつけていた。しだいに大きくなってくる赤旗で飾られた大きな船が二隻、旗の林立で満艦飾といった壮観さ。はっきり見え出すと、『おう、大きなすばらしい船だ!』とみんなもう胸がいっぱいで表現のしようもない。・・・『ご苦労さん、がんばりましょう』と声をかぎりに叫ぶだけで何もいえない。ただもう感激、お互いの連帯を一層強くしたことを力強く思った。“沖縄をかえせ”の歌が本土側の船から海上いっぱいに流れた。むしょうに涙が流れた。

本土のみなさんが百十日間という長い月日を沖縄返還要求国民大行進に取り組んでこられ、沖縄県民もまた、沖縄解放のためにたたかい、沖縄解放と日本の独立のためにみんな真夏の太陽に黒く焼けていた。五十日余を歩きつづけてきた労苦の後に味わう大きな喜びであった。・・・。

午前十時二十分、大会がすんで、両方の船が反対の方向へ、ひきちぎられるような思いで名残り惜しくも別れを告げ、また会える日を心に期して、しだいに離れていったとき、緊張はいっぺんにほぐれてみな疲れと船酔いで船底に倒れた」。(内村千尋編著『瀬長フミと亀次郎』あけぼの出版 2005年)

そして碑文は次のような痛切な文章で締めくくられる。「一九七二年五月一五日、沖縄の祖国復帰は実現した。しかし県民の平和への願いは叶えられず 日米国家権力の恣意のまま軍事強化に逆用された しかる故に この碑は 喜びを表明するためにあるのでもなく ましてや勝利を記念するためにあるのでもない 闘いをふり返り 大衆が信じ合い 自らの力を確かめ合い決意を新たにし合うためにこそあり 人類の永遠に生存し 生くとし生けるものが 自然の摂理の下に 生きながらえ得るために警鐘をならさんとしてある」。

541文字、10段の碑文(復帰協3代会長 桃原用行)に、沖縄の人びとの矜持が凝集されている。そう感じるのは私だけだろうか。この日は、58号線沿いに西海岸を北上し、辺戸岬から東海岸経由で那覇に戻った。走行距離174キロ。国頭村では、ヘリパッド建設反対のテントがはられている。

沖縄を歩くようになって30年近くたつ。北国育ちの人間がもつ南方への無条件の憧れということがひとつある。それ以上に、沖縄の現実を凝視することで「戦後日本」を相対化する視座をもつ、ちょっと大げさにいえばそんな目的である。ただ、自分の視座を身体化するということは決して容易なことではない。

私のなかの北方性について新城俊昭さん(沖縄大学客員教授)に話したときに、新城さんがちょっと間をおいてこういった。「渡部さんの場合は、自分が日本人だということを疑う必要がないでしょ」。それからもういちど間をおいて「私たちはまず、沖縄は日本なのかというところからはじめなければならないんです」と続けた。

そもそも私は日本人なのかと問うところからはじまる、その言葉が、27度線を望む海上風景と重なって、あれからずっと心の中で響いている。