日別アーカイブ: 2014/05/15

ヒバの生命力

庭の手入れで秋田に帰った。いろいろあって帰省がいつもより1~2週間遅くなったが、そのおかげで水をはった田んぼの美しさを堪能できた。さざ波がキラキラと日の光を反射し、田植えする人の姿をクッキリみせている。

いつも最初にするのは、風雪被害の確認である。去年は、松の木が一本倒れたが、今年は米ツガが根上がりし、右側に大きく傾いている。かなりの高木のこととて、しばらくこのままにしておくほかないだろう。

園路では実生の若木がたくさん伸びはじめている。ヒバ、スギ、アオキ、オンコ、モミジ、ケヤキ、小笹のほか、名前をしらないものもたくさんある。放っておくとたちまち大きくなって通りをふさぐから、せっせと刈り取る。植物は自然に多様性にむかっていくものだ。だからこの作業をしていると、庭づくりがいかに人工的空間を維持するために精力をそそぐのか実感できる。

とはいえ、土壌と樹木の相性という問題もある。わが家の土壌はとりわけヒバと相性がいいらしい。屋敷の外周にヒバの高木が並び、東道路に面した垣根もヒバ、庭の中心木のひとつも大きな糸ヒバである。ヒバだらけといってよい。

なかに幹の上半分の樹皮がすっかりはがれて、白骨化してしまったヒバがある。東庭の築山にあるもので、庭からはその幹が見えない。もともとこのヒバは、西をモミジ、南をヤマナシ、北をヒバの高木に囲まれていて、東の方向に枝を伸ばすほかない環境である。

道路側からみると、緑のなかにまっすぐに伸びる白い幹が確認できる。烏が止まって、あたりを睥睨するのにちょうどいいらしく、子どもの頃はよく朝方から烏が止まって鳴いていた。私は聞き分けられないが、わが家ではその「烏泣き(からすなき)」で一日の吉凶を占う習慣があった。

通る人には、ただの枯れ木にしかみえないヒバだが、築山にあがってその幹に近づき、目を上にあげると印象が一変する。枯れのこった幹から奇妙な形の枝がニョキニョキでていて、まるで野性味あふれるオブジェを見ている気分になるからだ。

いったん西向きに伸びた枝が垂直に上がる

いったん西向きに伸びた枝が垂直に上がる

南に伸びた枝はヤマナシの幹に行く手を遮られ、ぐにゃりと放物線を描いて東にむかう。先端では7つにも8つにも枝分かれし、青々と葉を茂らせている。いったん北に伸びた枝も、肘を曲げたような急角度でやはり東に向かう。その肘の付け根のところでいくつにも枝分かれしている。西に伸びた枝には出所がないので、途中からほとんど90度の角度で上に伸びあがっている。その枝の太さが尋常でない。ほとんど成人の胴ほどもあろうか。垂直に伸びた枝の途中から、脇枝が四方八方に伸びている。

制約された環境とヒバの生命力が、この奇妙な枝ぶりをうんだ。物心ついたころ、すでに三分の一ほど白骨化していたが、50年かけてヒバの白骨化がゆるやかに進行している。枯死にむかう緩慢な歩みともいえる。ただ、この幹の傍らにたつと、私はむしろヒバの激しい生命力の方にうたれる。

正直にいえば、庭木としてのヒバは好みではない。私の知る限り、ヒバを上手に庭木に仕立てているのは京都の青蓮院くらいではないかと思う。それほどハードルが高い。にもかかわらず、この10年、限られた私の労力の多くをヒバとの格闘に費やしてきた。

仕方がない。与えられた環境として、ヒバに親しみ、長く付きあっていくしかないか。最近は、そう思い始めている。