月別アーカイブ: 5月 2014

岡田庄生『買わせる発想』を読む

買わせる発想サブタイトルは「相手の心を動かす3つの習慣」。帯には「数々のクライアントが呆然!博報堂・若手敏腕コンサルの『幻の講義』」とある。私のようなへそ曲がりは、どうせ才気ばしった若手コンサルが自信満々で処方箋を示すんでしょなどと読む前から斜に構えてしまいそう。ところがどっこい、著者に才能をひけらかす雰囲気など微塵もなく、むしろ残るのは爽やかな読後感である。

3つの習慣」というのは、具体的な事実から考える、事実を深く掘り下げて考える、コンセプトを絞ってシンプルに伝える、の3つ。奇をてらうフレームではない。むしろオーソドックスな発想といっていいだろう。だから本書の説得力は、3つの習慣にまつわる具体例の選択にこそある。これが面白い。ガソリンスタンドの新しいビジョンを考える、地方銀行の経営理念をつくるなどのコンサルティングの様子から社員研修の様子まで、関係者がどう思い込みから脱却していったのかを軸にして語られている。

そのフレームのことだが、著者は、有名な経営やマーケティングのためのフレームが幅を利かせる現状について、「基本的には過去に成功した事例の共通する要素を、どこかの(多くはアメリカの)学者や研究者が独自に研究して、使いやすくしたものです。未来に新しいアイデアを生み出す時に、必ずしもそのフレームが有効かどうかは分かりません」(48頁)と疑問を呈している。

そして「自分自身の体験や、自分がイメージした具体的な事実から考えて、それをもとに自分がオリジナルなフレームを作るんだ、そのぐらいの気持ちで考えたほうが、新しい発想に近づけるかもしれません」(64頁)とも書いている。借り物でなく、自分でフレームを作ろうという呼びかけに大いに共感した。

著者の岡田庄生さんは、ICUの高校と大学、両方でわたしの授業をとっている。とくに高3のときのプロジェクト「50年後の食卓」(1998年度「政経演習」)で大活躍した。日本の食のこれまでとこれからについて、学校祭でスキット形式で発表したのだ。

TV番組「あしたの料理」は、おなじみNHK「きょうの料理」のもじり。例の冨田勲のタンタラタラタラ、タンタンタンのテーマ音楽にのって、割烹着姿の料理研究家が登場、30周年記念と銘打って番組の歴史を振り返る。

30年の流れをたどると、より短時間でより多くの品数を紹介するようになったという。「15分でできる夕食」というように。共働きの増加、調理器具の発達などがその背景にある。岡田さんは、経験豊富な「外食専門家」の役で登場し、外食産業の浸透ぶりをレポートしている。これなど、いまの仕事に直結したプロジェクトに思えるし、そもそもリサーチにかかわるフットワークの軽快さなども、当時からのものと見た。

本書を読むと、ワークショップでのファシリテーションの知恵が満載である。「幻の講義」と銘打つ所以だろう。それで「コンサルティングとは、何かを『教える』仕事ではなく、クライアントが本来持っている価値を引き出すために『問いを投げかける』仕事である」と喝破している。「(買わせる)発想を生むのは、丁寧に生きる毎日の中で見つけた具体的な事実であり、それを誰よりも深く掘り下げる情熱であり、シンプルに研ぎ澄ます潔さである」(192頁)ともいっている。

クライアントの業種とは一見無関係にみえる業種の成功例・失敗例を提示し、その理由を売り手・買い手を問わずさまざまな角度から考えるなかで仕事の「意味」を掘り下げてみる。その思考実験をベースにして、クライアントがそれまで気づいていなかった自分自身の仕事の意味や社会的ミッションの発見につなげていく。未知の業種の人たちと出会い、一緒になってこうした意味発見の旅にでる。コンサルタントをそんなワクワク感に富む仕事と知ったのも新鮮だった。

このコンサルティングのプロセスを「教育的」といってしまうといささか語弊がありそうだが、それでも、これまで獲得研がやってきた共同研究・自己研修の歩みと、どこかでつながる要素があると感じて、それが何より面白かった。(講談社刊)

 

辺戸岬に立つ

沖縄 043

今年の1月、沖縄県庁から辺戸岬までドライブした。27度線について考えたいと思ったのだ。岬に人かげはまばらである。雨もよいで風が強く、岸壁にぶつかる荒波がときおり白い飛沫になって頭上にふってくる。

沖縄 028

与論島が思いのほか近くにみえる辺戸岬の突端に、よく手入れされた「祖国復帰闘争碑」(1976年)が海を背にして立っている。黒い石に刻まれた碑文「全国のそして全世界の友人へ贈る」は、高いトーンの文章ではじまっている。

「吹き渡る風の音に 耳を傾けよ 権力に抗し 復帰をなし遂げた大衆の乾杯の声だ 打ち寄せる波濤の響きを聞け 戦争を拒み平和と人間解放を闘う大衆の雄叫びだ」。

“鉄の暴風”はやんだが、1952年4月28日のサンフランシスコ条約で、沖縄は米軍の支配下に組み込まれた。碑文は「米軍の支配は傲慢で 県民の自由と人権を蹂躙した 祖国日本は海の彼方に遠く 沖縄県民の声は空しく消えた われわれの闘いは 蟷螂の斧に擬せられた」と続く。

「見よ 平和にたたずむ宜名真の里から 二七度線を絶つ小舟は船出し舷々相寄り勝利を誓う大海上大会に発展したのだ 今踏まえている土こそ 辺戸区民の真心によって成る沖天の大焚火の大地なのだ」。

27度線をはさんでおこなわれたその大焚火と海上大会の様子を、瀬長フミさんが記録している。少し長くなるが以下に引用してみよう。「一九六四年八月一四日、行進団百名余、国頭村辺戸の北国小学校に五時ごろ到着、小学校の教室を解放してもらって落ちついた。今夜の焚火大会や明日の海上大会への参加のため、各地からぞくぞく学校に集まり、四百名余になった。・・・暗くなった辺戸岬の広っぱは四百人余りの人びとが輪を作り歌をうたっていた。

中央に大きな丸太がうず高く積み上げられ、すぐ火がつけられるように準備されていた。海はまっくらで、海なりがきこえていた。八時、与論島にポッと灯が見えると、こちらもパッと燃え上がった。みんなワッーと歓声を上げ、両手をあげて本土の灯をみたり、こちらがわの灯をみたり、その喜びはなんとも表現しえない気持ちであった」。

その夜、参加者はほとんど寝ずに朝を迎える。「午前六時、国頭村宜名真から出発、他の隊列は奥という海岸からでて二十七度線へ向けてポンポンひびかせて走った。・・・だれかが『見えた、ほら本土の船だ』と叫んだ。ほんのり見える黒点を見失うまいとみんなじっとにらみつけていた。しだいに大きくなってくる赤旗で飾られた大きな船が二隻、旗の林立で満艦飾といった壮観さ。はっきり見え出すと、『おう、大きなすばらしい船だ!』とみんなもう胸がいっぱいで表現のしようもない。・・・『ご苦労さん、がんばりましょう』と声をかぎりに叫ぶだけで何もいえない。ただもう感激、お互いの連帯を一層強くしたことを力強く思った。“沖縄をかえせ”の歌が本土側の船から海上いっぱいに流れた。むしょうに涙が流れた。

本土のみなさんが百十日間という長い月日を沖縄返還要求国民大行進に取り組んでこられ、沖縄県民もまた、沖縄解放のためにたたかい、沖縄解放と日本の独立のためにみんな真夏の太陽に黒く焼けていた。五十日余を歩きつづけてきた労苦の後に味わう大きな喜びであった。・・・。

午前十時二十分、大会がすんで、両方の船が反対の方向へ、ひきちぎられるような思いで名残り惜しくも別れを告げ、また会える日を心に期して、しだいに離れていったとき、緊張はいっぺんにほぐれてみな疲れと船酔いで船底に倒れた」。(内村千尋編著『瀬長フミと亀次郎』あけぼの出版 2005年)

そして碑文は次のような痛切な文章で締めくくられる。「一九七二年五月一五日、沖縄の祖国復帰は実現した。しかし県民の平和への願いは叶えられず 日米国家権力の恣意のまま軍事強化に逆用された しかる故に この碑は 喜びを表明するためにあるのでもなく ましてや勝利を記念するためにあるのでもない 闘いをふり返り 大衆が信じ合い 自らの力を確かめ合い決意を新たにし合うためにこそあり 人類の永遠に生存し 生くとし生けるものが 自然の摂理の下に 生きながらえ得るために警鐘をならさんとしてある」。

541文字、10段の碑文(復帰協3代会長 桃原用行)に、沖縄の人びとの矜持が凝集されている。そう感じるのは私だけだろうか。この日は、58号線沿いに西海岸を北上し、辺戸岬から東海岸経由で那覇に戻った。走行距離174キロ。国頭村では、ヘリパッド建設反対のテントがはられている。

沖縄を歩くようになって30年近くたつ。北国育ちの人間がもつ南方への無条件の憧れということがひとつある。それ以上に、沖縄の現実を凝視することで「戦後日本」を相対化する視座をもつ、ちょっと大げさにいえばそんな目的である。ただ、自分の視座を身体化するということは決して容易なことではない。

私のなかの北方性について新城俊昭さん(沖縄大学客員教授)に話したときに、新城さんがちょっと間をおいてこういった。「渡部さんの場合は、自分が日本人だということを疑う必要がないでしょ」。それからもういちど間をおいて「私たちはまず、沖縄は日本なのかというところからはじめなければならないんです」と続けた。

そもそも私は日本人なのかと問うところからはじまる、その言葉が、27度線を望む海上風景と重なって、あれからずっと心の中で響いている。

獲得研シリーズ・第3巻の執筆

5月17日の定例会で、獲得研シリーズ第3巻『教育プレゼンテーション』の執筆分担が確定した。現場で活用できる30項目のプレゼン技法を一望できるアクティビティ・ブックである。これだけの項目を収録した本というのはまだ刊行されたことがない。

1巻、2巻と同様、3巻でも「技法のルール」とそれを活用した「実践報告」をセットで提案する。読者が、実践場面に即して技法の活用をイメージできるようにする、それが獲得研シリーズのコンセプトだからだ。今回は、28名の執筆者が、合計36本の実践報告を寄稿することになっている。

ではプレゼン技法をどういうカテゴリーで分類するのか、また総計でいくつの技法を盛り込むのか、ずいぶん時間をかけて議論してきた。その結果、前者についていえば、かねて獲得研が提唱している表現活動の三つのモード「コトバ、モノ、身体」を章立てに援用すること、後者についていえば、メインの技法を24項目まで絞り込むことにした。第1巻(ドラマ技法)で16項目、第2巻(ウォーミングアップ技法)で70項目、それぞれ収録しているから、今回は第1巻に近い構成になる。

実際のところは、かえってたくさんの技法を盛り込む方が、絞り込むよりも易しい。ただ、獲得研は一群のアクティビティをきたるべき時代の新しい共通教養にしたいと考えていて、「学習スキルのミニマムとは何か」を探ってきた。だからこそ、技法を精選する作業は避けて通れない。

シリーズ本制作の醍醐味は、なんといっても定例会でのディスカッションにある。小学校から大学までの教師が、共通テーマの実践(報告)を真ん中において、あらゆる角度から思考実験をくりかえす。滅多にできる経験ではない。今回、収録数を絞り込んだということは、それだけ個々の「実践報告」の比重が大きくなったということでもある。

早速、定例会で「教師/生徒」の変容をどう記述するべきなのかが議論になった。ひと口に変容というが、これを説明しようとしたら、短期的なもの・長期にわたるもの、採用した方法の影響によるもの・内容によるもの、計測可能なもの・不可能なもの、眼にみえるもの・見えないものなど、着眼点が色々にでてくる。

ことほど左様に実践研究は奥が深く、研究方法のスタンダードも固まっていない。ただ、それだからこその面白さもある。道なきところに道を拓く面白さである。

現場をもつ当事者による臨床的研究が、「実践研究」の領域として自立できる条件は何か、それを探ることが獲得研のミッションである。こうした課題を正面に掲げるにあたっては、8年かけてそれなりの成果を蓄積してきた背景がある。

これまでもそうしてきたが、今回も、3巻の制作を通して新しいルートの開拓にみんなでチャレンジしてみたいと思っている。

ヒバの生命力

庭の手入れで秋田に帰った。いろいろあって帰省がいつもより1~2週間遅くなったが、そのおかげで水をはった田んぼの美しさを堪能できた。さざ波がキラキラと日の光を反射し、田植えする人の姿をクッキリみせている。

いつも最初にするのは、風雪被害の確認である。去年は、松の木が一本倒れたが、今年は米ツガが根上がりし、右側に大きく傾いている。かなりの高木のこととて、しばらくこのままにしておくほかないだろう。

園路では実生の若木がたくさん伸びはじめている。ヒバ、スギ、アオキ、オンコ、モミジ、ケヤキ、小笹のほか、名前をしらないものもたくさんある。放っておくとたちまち大きくなって通りをふさぐから、せっせと刈り取る。植物は自然に多様性にむかっていくものだ。だからこの作業をしていると、庭づくりがいかに人工的空間を維持するために精力をそそぐのか実感できる。

とはいえ、土壌と樹木の相性という問題もある。わが家の土壌はとりわけヒバと相性がいいらしい。屋敷の外周にヒバの高木が並び、東道路に面した垣根もヒバ、庭の中心木のひとつも大きな糸ヒバである。ヒバだらけといってよい。

なかに幹の上半分の樹皮がすっかりはがれて、白骨化してしまったヒバがある。東庭の築山にあるもので、庭からはその幹が見えない。もともとこのヒバは、西をモミジ、南をヤマナシ、北をヒバの高木に囲まれていて、東の方向に枝を伸ばすほかない環境である。

道路側からみると、緑のなかにまっすぐに伸びる白い幹が確認できる。烏が止まって、あたりを睥睨するのにちょうどいいらしく、子どもの頃はよく朝方から烏が止まって鳴いていた。私は聞き分けられないが、わが家ではその「烏泣き(からすなき)」で一日の吉凶を占う習慣があった。

通る人には、ただの枯れ木にしかみえないヒバだが、築山にあがってその幹に近づき、目を上にあげると印象が一変する。枯れのこった幹から奇妙な形の枝がニョキニョキでていて、まるで野性味あふれるオブジェを見ている気分になるからだ。

いったん西向きに伸びた枝が垂直に上がる

いったん西向きに伸びた枝が垂直に上がる

南に伸びた枝はヤマナシの幹に行く手を遮られ、ぐにゃりと放物線を描いて東にむかう。先端では7つにも8つにも枝分かれし、青々と葉を茂らせている。いったん北に伸びた枝も、肘を曲げたような急角度でやはり東に向かう。その肘の付け根のところでいくつにも枝分かれしている。西に伸びた枝には出所がないので、途中からほとんど90度の角度で上に伸びあがっている。その枝の太さが尋常でない。ほとんど成人の胴ほどもあろうか。垂直に伸びた枝の途中から、脇枝が四方八方に伸びている。

制約された環境とヒバの生命力が、この奇妙な枝ぶりをうんだ。物心ついたころ、すでに三分の一ほど白骨化していたが、50年かけてヒバの白骨化がゆるやかに進行している。枯死にむかう緩慢な歩みともいえる。ただ、この幹の傍らにたつと、私はむしろヒバの激しい生命力の方にうたれる。

正直にいえば、庭木としてのヒバは好みではない。私の知る限り、ヒバを上手に庭木に仕立てているのは京都の青蓮院くらいではないかと思う。それほどハードルが高い。にもかかわらず、この10年、限られた私の労力の多くをヒバとの格闘に費やしてきた。

仕方がない。与えられた環境として、ヒバに親しみ、長く付きあっていくしかないか。最近は、そう思い始めている。

 

高校の同級生

秋田高校の同級生・堀井伸夫くんを誘って、いまもときどきおしゃべりする。進路について同級生でよく議論したものだが、なかでもバレーボール部のキャプテンをしていた堀井くんが一番の話し相手だった。彼は佐竹藩の在郷武士の末裔である。雄物川に面した屋敷のはじに巨大なアカマツが聳え、長押に漆塗りの長い槍がかけわたしてあった。

広小路側から旧県立図書館をみる

広小路側から旧県立図書館をみる

もともと次男として生まれたのだが、家族内の事情から、大学をでたら秋田に戻って家を継ぐとはやくから決めていて、実際にその通りにした。そういう運命の受容の仕方を、私はなんとも潔いものに感じた。

堀井くんとは受験勉強も一緒にした。県立図書館の閲覧室がわれわれの勉強場所で、窓から旧久保田城のお濠越しにメインストリートの広小路が見渡せる。広小路は百貨店や専門店が立ち並ぶ賑やかな通りである。当時、老舗の木内(きのうち)デパートは売り場に秋田美人が多いことで知られていた。市内に実家のある友人が帰省すると、まず木内の売り場を一周し、それから安心して家路につくのだと自慢していたものだ。

繁華だった広小路も今は昔、1982年に17千人あった一日の通行量が、2005年には3千人を切ったという(201116日付朝日新聞・秋田版)。もっとも、いまは少し盛り返しているのではないかと思う。

ふたりは図書館をでると反対方向に別れる。堀井くんは明かりのともる広小路を通って保戸野の下宿に、私は千秋公園の薄暗い坂をのぼり平田篤胤、佐藤信淵を祀る弥高神社の脇を抜けて千秋北の丸の下宿に、それぞれ帰るのである。

千秋公園 下宿tに続く道

千秋公園 下宿tに続く道

職業安定所に就職した堀井くんは、秋田県内をくまなく転勤してまわり、大館市のハローワークの所長で定年を迎えた。3人の子どもを立派に育て、家を守り、秋田の経済を足元から支えてきた人生である。

そんな堀井くんと話していると、ときどき、別の人生を生きてきた「もう一人の自分」と会っているように思えるから不思議である。

ブログ2周年

5月3日で、ブログ開始から丸2年たった。アップした記事の総計が148本。初年度は95本だが、2年目は53本にペースダウン、それでも1週間に1本はアップした計算になる。

6月の異文化間教育学会第34回大会の開催校の仕事にはじまり、この3月の『教育におけるドラマ技法の探究―「学びの体系化」にむけて』(明石書店)の刊行まで、それこそ一気呵成の歩みだったから、まあまあよく書いた方だと思う。

遅筆のほどは相変わらずである。とにかく時間がかかる。ただ、こうやって記事が積み重なっていくと、そのうちアップする記事の傾向と本人の身辺状況との対応関係が浮かび上がってくるのではないか、そんな気もしている。

獲得研の方は、2年かけて準備してきた第3巻「教育プレゼンテーション」の執筆体制が整いつつある。新春合宿で「執筆地獄」なる言葉も生まれたが、またまた「たの苦しい」(獲得研用語:楽しい+苦しい)日々の始まりとなる。

フレッシュな執筆陣も迎えて、さてこれからどんなコラボレーションが生まれ、どんな成果が生み出されるのか。ワクワクものである。

『木村伊兵衛の秋田』をみる

木村の秋田 005昨年、JRの駅頭で木村伊兵衛の写真「秋田おばこ」(1953年)を何度もみかけた。秋田デスティネーション・キャンペーンのおかげである。それがきっかけで、生誕110年記念出版と銘打った『木村伊兵衛の秋田』(田村武能監修 朝日新聞出版 2011年)を手元に置き、折節に眺めている。

この写真集は、木村伊兵衛のライフワークとなる秋田の写真のうちの156点を、春夏秋冬にわけて構成したものだ。素材の多くが、農作業や年中行事の風景である。

木村の撮影行は、1952年から1971年までのべ21回におよぶ。この期間は、私の在秋時期とほぼ重なっている。1951年に八郎潟東岸の農村で生まれ、1970年に上京したからだ。

それで、きっと同時代の記憶がパッケージになった写真集に違いない、と独り決めしていた。しかし、そうではなかった。一つは掲載作品の撮影年代である。157点のうち134点(85パーセント)が1950年代に集中している。しかも98点が50年代前半のものだから、大方が私の記憶以前の秋田である。もう一つは、撮影地で、圧倒的多数が現在の大仙市と秋田市周辺の光景である。渡船場の情景を描いた「冬」(1953年)などに、カルティエ=ブレッソンに通じる構成の美しさを感じるが、当然のこと、私の育った八郎潟東岸の風景とは違うものである。

ただ、この二つの条件を別にしても、どこか居心地の悪さが第一印象として残った。二つ理由がある。一つは、ついつい被写体にされた側の眼で見てしまうからである。編集された写真には、自動車はおろかプラスチック製品も一切登場しない。物心つく前後だから記憶違いもあろうが、いっかな画面のなかの情報が古すぎやしないか、と感じたのである。

さらには、テーマ性を読み取れなかったことである。撮影地も撮影時期も違う写真が組み合わされているだけでなく、1枚ずつが都会の観察者の眼で切り取った風俗写真として完結している。だから、一連の作品を貫通するテーマが見えてこない。

1958年に、木村伊兵衛自身がこう書いている。「(秋田に)きてみると風俗がなかなか美しいので驚いた。カスリの着物、雪の日の角巻き姿などの風俗にひかれて、それから年に3、4回も通うようになった。・・・つぎからつぎへと興味をそそる対象にぶつかった。しかし、うつした作品には、結局古い秋田しか出てこない。それだけ風俗に多くひかれているのだと思った」(260頁の資料)。なるほど、この述懐は本当だろうし、それが生前に作品集として完結しなかった理由の一つかもしれない。

これを東京・下谷生まれのカメラマンがみた「残しておきたい秋田」というバイアスがかかった風俗写真集とみれば、はじめて納得がいく。対象の面白さに導かれてできた作品群であり、それを面白がる木村自身のエキゾチシズムの質そのものが作品に投影している。

それも含めて、時代の証言としてこの写真集を眺めているうちに、もう少し複雑な味わいが感じられるようになった。だから、これを風俗写真集であると定義したからと言って、少しも作品の質を貶めるものではない。