月別アーカイブ: 4月 2014

小石川後楽園のガイドツアー

唐門の付近は園路が延段になっている

唐門の付近は園路が延段になっている

都心にでたついでに小石川後楽園にいってみた。丸ノ内線の電車の窓から何十年も後楽園の緑をみている。それどころか築地塀沿いの道を何度か歩いてもいる。しかし、中に入るのは初めてである。

受付で間もなくガイド・ツアーがあると聞いたので、これ幸いと参加してみることにした。首里の識名園、高松の栗林公園などこれまでに色んなところでシルバー・ボランティアのお世話になったが、どの方もおしなべて熱心である。

集合場所にいったら、先客が3人いる。ガイドは、今月デビューしたばかりという石川さん。何しろよく下調べしている。

中国趣味で知られる小石川後楽園は、水戸徳川家の祖・頼房が工事をはじめて光圀が完成させたものである。いわゆる水戸黄門だ。ところが、黄門というのは従三位の位をもつもののことで、水戸徳川家にはほかに黄門様が7人いるのだという。それに後楽園を名乗る庭は、岡山が発祥と思いこんでいたが、小石川の方が先で、岡山の後楽園は明治の世になってからの名称だという。こんな話題が随所に組み込まれている。

小石川後楽園は、まるで名所図絵を立体化したような庭だ。現在はないが、いまの出入口である西門の反対側、つまり東門の方向に唐門がたっていて、それが元々の出入口だったという。唐門をくぐると鬱蒼とした園路(中山道)、その道は大泉水(琵琶湖)をへてやがて京都へ。小廬山(東山三十六峰)、懸崖づくりの舞台(清水寺)、通天橋(東福寺)、愛宕山など名所を経由して、東海道経由で江戸にもどるという趣向である。八つ橋や美保の松原まである。

こうした直球の見立ては、わたしの趣味ではないが、江戸時代にあったたくさんの大名屋敷、その数だけあっただろう庭園の姿を想像する手掛かりとして興味は尽きない。

一面のシャガやら藤やらの花も目を楽しませてくれたので、一時間半のツアーにすっかり満足して家路についた。

皇居周辺の桜をみる

外濠通りの桜

外濠通りの桜

いまごろ散ってしまった桜の話をするのもどうかと思うが、珍しく4月の第1週に都心の桜見物ができたので、心覚えに書いておこうと思う。4月2日のことである。夕方、市ヶ谷で大学本部の会合があり、ついでに花見をしようと思い立ったのだ。花曇りの肌寒い日だった。

東京駅を起点にして、内濠通りを時計と反対回りに歩く。千鳥ヶ淵あたりまでいってから、最後に市ヶ谷へ向かう計画である。ところが人の流れに誘われて平川門から東御苑に入ってみると、これが思いのほか面白かった。大手門の近くにある三の丸尚蔵館をピンポイントで訪れたことはあるが、御苑の奥に入るのは今回が初めてである。

桜の数はさほどではない。ただ、江戸城本丸御殿跡までくると、都心とは思えないほど広々した空がひろがっている。皇居の周囲をこんなに高いビルが取り囲むようになったのか、というのも新しい発見だった。

東御苑で予定外の時間を使ったので、コースを変更し、地下鉄で飯田橋にでて、そこから市ヶ谷まで土手の上を歩くことにした。中央線をはさんで外濠の向こうもこちらも満開の桜である。法政大学の学生さんたちが、地面にブルーシートや段ボールを敷いて、熱心に新歓の準備をしている。その陣地が土手の上に延々と続いているのも面白い。

もう20年も前のことになるが、法政大学で非常勤講師をしていたとき、同じコースをいつも逆方向に歩いていた。ICU高校に勤めていたころだ。武蔵境から市ヶ谷にきて電車を降り、大学まで土手の上を歩く。授業を終えるとそのまま神楽坂まででて夕食をとり、有楽町線で池袋へというコースである。あるとき食事を終えて店をでたら、何かの打ち上げだったらしく、山田洋二監督のグループが上機嫌で歩いているのにでくわしたことがある。

通例4月の第1週は、教職コースのガイダンスと新入生ガイダンスとが重なり、連日のようにバタバタしている。ほんの半日だったが、サバティカルのおかげで、今年はいつもと少し違う気分の第1週を過ごすことができた。

江戸っ子の蕎麦―会津八一と岩本素白

浅草から向島側をのぞむ

浅草から向島側をのぞむ

朝日新聞の夕刊(4月22日付)に、波乃久里子さんが浅草「並木 藪蕎麦」のおかめそばを「おつゆは辛くて江戸っ子の味」と紹介している。「両親(十七代目中村勘三郎夫妻)はダラダラ話をするのが嫌いで、さっと食べて、さあ帰りましょうって。味わっていられないですよ」とも。

このコラムを読んで、義父・熊谷幸次郎(早稲田大学名誉教授)から聞いた会津八一と岩本素白の戦前のやり取りを思い出した。あるとき会津八一が、落合に引っ越すことを同僚の岩本素白に話したら、蕎麦好きの素白から「落合にもそば屋はあるのかい」と言われた話だ。義父は、師の会津八一からこの話を聞いている。八一はいささか心外のていで「そば屋くらいあらあな」と義父にいった。

義父の幸次郎は湯島新花町で育ったひとで、本人も江戸っ子の気風をもった蕎麦好きである。池之端の蓮玉庵で素白にでくわしたことがある、とも聞いた。八一と素白が友人同士でなければ、ただの厭味になりかねないエピソードなのだが、二人の関係を知っているとしみじみ味わいがある。幸次郎がこの話を長く記憶していたのは、義父のなかにも素白の諧謔味に通じるものがあるからだろう。

私も並木藪の蕎麦が美味しいと思う。ただ、18歳で上京するまで、おそば屋さんの蕎麦というものを食べたことがなかったから、蕎麦をすする習慣は青年期以降に属するものである。

江戸っ子の好みはいまもってわからないのだが、ようやく“そば屋で一杯”を楽しめる年齢になってきたことだけは嬉しい。

書斎の整理

八国山と庭 003

41日から半年間の研究休暇に入った。とはいっても、何やかやと仕事があるから、出たり入ったりの生活をしている。その合間に、書斎の資料を整理した。

 書斎は、居間がわりにしている食堂の真上である。余りの重さで、すでに2階の床がかしいでしまっている。ワイフに「あなたの留守のあいだに、私がぺちゃんこになったらどうするつもり!」とずっと脅されてきた。

 書斎に残すもの、2階の納戸に移すもの、1階の和室に降ろすもの、庭の倉庫に移すもの、廃棄処分にするもの、この4種類に分けるのだから、何しろ時間がいる。思い切って捨てることも難しい。相手が本となれば尚更である。それやこれやで、玉突きのように荷物が移動するばかり。かけた労力の割には達成感が乏しい。

 それでも1週間かけてやっと形がついたので、ワイフの強迫からしばらくは解放されることだろう。気が付けば八国山の山桜が満開、わが家のぼけも花盛りである。

 これでじっくり研究に取り組めるはずなのだが・・・。さて?