奄美大島の印象 (2)

内部が改装されてきれいになっている

内部は改装されてきれいになっている

奄美大島の印象を反芻しているうちに、書くタイミングを逸してしまい、そのまま年を越した。復帰60周年の特別企画展をやっている奄美博物館、笠利歴史民俗資料館、縄文の宇宿貝塚など訪ねたが、どこも閑散としている。他に客がいないのだ。その代わり、どこでも懇切な説明を聞くことができた。

西郷隆盛の流謫の家もそうである。島の北部に、龍郷湾が深く陸地に入り込んでいる地域があり、そこに2間続きの藁葺の家が残っている。汐留というどん詰まりの場所から、湾の出口に向かって北の方向に10分ばかり車を走らせると、龍郷集落についた。一本道の両側に長く家並みが続いている。だが、尋ねようにも人の姿がない。いったん集落をではずれて、真ん中辺まで引き返したら、ちょうど現当主の龍さんが、案内の幟を立てるところだった。

現当主の龍さん 屋敷を美しく掃き清めている

現当主の龍さん 屋敷を美しく掃き清めている

西郷隆盛は、流人として1859年から3年間、ここ龍郷の有力者である龍家の一角に住んだ。その間、愛加那(龍家次男の娘 本名:愛子 加那は女性の尊称)と結婚する。西郷33歳、愛子23歳、いわゆる島妻である。二人の間に、菊次郎、菊草(後の菊子)ができたが、明治になってから、どちらも西郷本家に引き取られている。菊次郎が8歳、菊子が14歳になったときである。後に、西郷菊次郎は第2代京都市長、菊草(後の菊子)は大山巌の弟・精之助の妻になった。

龍さんの説明によると、この家は、西郷が建てさせた薩摩風のもの、この新居に移転した次の日に召喚状を受け取ったので、ここで暮らしたのは2カ月足らずである。以来、1902年に亡くなるまで、愛加那がこの家で暮らすことになる。西郷から愛子にあてた一通の手紙も確認されていない、という。

龍さんのお祖父さん夫婦が、縁戚の愛子と養子縁組をしてこの家を継いだ。子どものころは、大島紬の全盛時代とあって「あっちこっちの家から機の音が響いて、賑やかさがありました」という。いまは5分の一にも足りないが、1972年には、28万反を超える生産があったらしい。

陽の傾くころ 奄美パークから立神方向

陽の傾くころ 奄美パークから立神方向

奄美は、15世紀からの「那覇世(ナハンユ)」、17世紀初頭からの「大和世(ヤマトユ)」、戦後の「アメリカ世」というように、絶えず外部の権力の支配を受けてきた。西郷がこの地にきたころは、黒糖地獄という言葉が象徴する通り、薩摩藩の苛斂誅求に苦しめられた時代である。この間の事情については、朝日新聞の神谷裕司氏が駐在員として取材した『奄美、もっと知りたい』(南方新社)の第2章「薩摩と琉球」が参考になる。ちょっと長くなるが、その内容を再構成してみよう。

1864年にゆるされて帰藩した西郷が、奄美の窮状を見かねて上申書をだし、代官らの人柄を調査してから派遣すること、島で必要なのは米であるから、米と砂糖の交換規定は厳守するよう、訴えた。島人を「毛頭人」「えびす共」と蔑視する西郷でさえ義憤を感じるほど、むごい政策がとられていたということである。

そもそもは、薩摩が1609年に琉球支配下の奄美に攻め込み、藩直轄の蔵入地にしたのがはじまりである。代官などの島役人を派遣し、地元の島役人を中間支配層として活用して、人民を統治する。公式には琉球王国のうちに置かれたままだから、幕府に内緒で収奪を強めたことになる。

夜の漁の準備 エビや魚をとる

夜の漁の準備 エビや魚をとる

1777年には、大島、喜界島、徳之島の三島を対象に、砂糖惣買入制をしく。奄美の農家から砂糖一斤を米三合の割合で交換し、大阪で4、5倍の値段で売った。経済的には奄美から莫大な利潤を得てそれを明治維新の原動力にしていったが、奄美が薩摩へ「同化」することは許さなかった。貨幣を禁止、往来も禁止、衣服など身なりは琉球風のものを強制し、姓を許された島の支配層も、幸、文、龍、里など一字姓に限定された。

年貢が払えず、借財が重なって富豪に身売りしたものも多く出た。これが「家人(ヤンチュ)」と呼ばれる、奄美独特の階層である。一種の債務奴隷と考えられている。幕末には、奄美の人口の約三分の一がヤンチュで占められる一方、三百人のヤンチュを抱える豪農も現れた。

そして神谷は、「明治になって鹿児島県が砂糖専売制度の実質的な継続を図った際には、西郷はこれに手を貸して、奄美の民衆を切り捨てたのである」と断罪している。

龍さんによると、菊次郎も西南の役にでて、右足を撃ち抜かれ、島に戻って1年余りを過ごしたという。都会で志を得なかったものが田舎に帰って再起を期すというのは、日本の近代によく見られるパターンである。ただ、本土と奄美の関係でいえば、都会・田舎、中央・地方の関係だけでなく、そこに本国・植民地関係をかぶせたようなものといえるだろう。

この家について説明を聞いていると、支配と差別の歴史がいくつもの層になって浮かび上がってくる。空地の目立つ集落をでて、町にもどる道すがら、言葉にならない複雑な感懐にとらわれた。その気分はまだ整理できないままである。

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