月別アーカイブ: 1月 2014

新城俊昭先生と琉球・沖縄史

機上から富士山がきれいに見えた

機上から富士山がきれいに見えた

沖縄で新城俊昭先生(沖縄大学客員教授)と会うときにかぎって、なぜか緊迫した社会情勢になっている。今回は、米軍基地の辺野古移転に反対する稲嶺進・名護市長が再選された直後である。

2年前は、ちょうど仲井真弘多知事が、首里城跡の地下にある陸軍の旧司令部壕の前におく説明板から慰安婦という文言を削除する、と決めて大問題になっていたときだった。翌日、文章を起草した検討委員会のメンバーとして記者会見する新城さんの様子を地元の新聞で読んだ。

新城俊昭さんは、私と同世代の実践的研究者である。仕事について知ったのは、10数年前、テレビのニュース番組だった。「琉球・沖縄史」のテキストを独力で執筆した高校教師がいるというナレーションとともに、長身痩躯の新城さんの授業風景が映しだされた。一人で通史を書くというのは、大変なことである。早速、本を読んで、2003年の全国私学・国際教育研修会で「沖縄を伝える―歴史教育と教材開発を通して」と題する講演をしてもらった。

それからというもの、あかり座公演を嘉手納高校で引き受けてもらったり、沖縄の教育界の現状を聞かせてもらったり、離島の見どころを教えてもらったりと、お世話になりっぱなしである。

名護から辺土岬へ 58号線沿いは海が荒れている

名護から辺土岬へ 58号線沿いは海が荒れている

新城さんの強みの一つは、那覇高校のような都市部の高校だけでなく、本島の山原、宮古・八重山諸島など各地の学校で勤務した経験をもつことだ。それぞれの地域の民俗にじかにふれ、また古文書などの一次資料に精力的にあたっているから、研究に奥行きが感じられる。

幼いころ、新城さんの父上が、米軍の車両に轢き殺された。その事実を受け入れることのできない5歳の新城さんの心のあり様が、「父の死とその後」という文章に描かれている。沖縄平和祈念資料館の「戦後の暮らし」のコーナーで、その静かな文章を読むことができる。この事件が、家族の生活をすっかり変えてしまった。

だから、新城さんの場合は、人生の意味を問うことと、教師であることと、研究者であることとがピタリと重なっている。10回もの改訂を重ねながら、ライフ・ワークである「琉球・沖縄史」の出版を続ける理由が、おそらくそれだろう。

今回は、晩発姓PTSDの話を聞いた。70代の退職教師の男性が、激しい右ひざの痛みに襲われた。病院でどんなに検査しても異状がみつからない。一人の医師がひょっとして、と思って尋ねたら、子どものころ、沖縄戦でいくつも死体を踏みつけながら逃げ延びた経験があるという。心の中に沈潜していった、すまない、すまないという思いが、60年以上の時間をへだて、身体の痛みとなって現れたのではないか、というのである。

新城さんは、沖縄の歴史教育のトップランナーである。管理職への誘いを断り、生涯一教師の道を貫いた新城さんが、定年と共に大学に移り、教師教育・現職研修の道に本格的に踏み出している。

これを機に、新城さんが代表をつとめる沖縄歴史教育研究会と獲得研でなにか新しいコラボレーションができるのではないか、そう考えるといよいよ楽しみである。

大阪でドラマケーション

先週、大阪環状線の福島駅からほどちかい金蘭会高校で、ドラマケーションの講座があり、そこで「コミュニケーション教育の理念と方法」という講義を担当した。

福島駅は大阪駅のすぐ隣りにある

福島駅は大阪駅のすぐ隣りにある

校舎3階のホールは、天井が高く、床は総ジュータン張り。ワークショップにぴったりの空間である。照明設備も素晴らしい。東住吉高校や咲くやこの花高校のような演劇科をもつところはともかく、大阪の普通高校でこんなに本格的な照明設備のあるところは、ほとんどないだろう。

公立・私立高校で演劇部の指導をしている人を中心に20数人が集まった。南村武先生(関西福祉大学金光桐蔭)、山本篤先生(金蘭会)たちがリーダーになって、若い世代の先生たちとベテランのいいチームワークができている。

いつものことだが、尾田量生さん(普及センター長)のワークショップは、落ち着いた雰囲気である。指導者が声を張り上げるのではなく、自分の身体をその場にはこんでいって、モデルを見せるやり方だからだ。

これから「人間知恵の輪」がはじまる

これから「人間知恵の輪」がはじまる

「ハンドリンク」や「人間知恵の輪」のときに大きな輪ができる。観客席の側からその輪を眺めていたら、ふいに山口薫の「おぼろ月に輪舞する子供達」の画の世界が浮かんできた。こんなことははじめてである。斜め上方から広々と俯瞰する構図に触発されたのだろう。会場に活気があふれているのに、それでいて静かさも感じる。

懇親会で、若い先生たちが、自分のかかえているモヤモヤした迷いを率直にぶつけてくれた。グループワークで早急に学習効果を上げるよう学校から指導されているのだが、そもそも生徒が発言しやすい雰囲気をつくる方策が自分たち教師の側に備わっていない。その分析がないまま、教材のつくり方をもっと工夫すればいいのでは、など空回りの議論が続いてきた、という事例も教えてくれた。

なるほど、ワークショップ会場で私の感じた静かな熱気というのは、こうした一人ひとりの熱意が放射されてできあがったものだったのか、と納得した。

新春合宿―テーマはプレゼン

プレゼン「獲得研ニュース」 執筆地獄を証言

プレゼン「獲得研ニュース」 執筆地獄を証言

恒例の新春合宿が4日、5日にあった。テーマはプレゼンテーション。2年がかりのテーマである。昨年の合宿からはじまって、今回の合宿、3月の春のセミナーとつながり、第3巻『教育プレゼンテーション』(2015年3月)の刊行がさしあたりのゴールになる。

獲得研シリーズでは、技法の解説と実践事例をセットで収録する。しかも、小学校から大学まで、できるだけ多様な事例を組み込む方針だ。教科や学年進行で本をつくるという教育出版の常識からいえば横紙破りである。執筆・編集にも膨大な時間がかかる。

プレゼン「ショー&テル」 腕時計

プレゼン「ショー&テル」 腕時計

しかし、新しい時代を形成する市民の共通教養の中核に「参加型アクティビティの習得」をすえるという考え方でやっているから、この挑戦は避けて通れない。第3巻は、ようやく50の技法が出そろって、これから本格作業にとりかかる。

合宿のワークショップで、二つのタイプのグループ発表を試した。ひとつは、「20分の準備で5分の発表」をする即興型のプレゼン。もうひとつは「2時間半の準備で5分の発表」をするextemporaneousのプレゼン。途中にリサーチワークを組み込む。どちらも、身をもってプレゼンを経験し、それを使って指導方法を考えるセッションだ。

プレゼン「お国自慢」 山口vs京都

プレゼン「お国自慢」 山口vs京都

後者のテーマは、「旅―第5福竜丸の」である。流れはこうなる。その場で3つのグループをつくる→絵本『ここが家だ』(アーサー・ビナード著、ベン・シャーン絵 集英社)を朗読→グループでメッセージや発表形式を相談→夢の島にある「第5福竜丸記念館」で取材→情報を持ち帰って編集→プレゼンを仕上げる。

第1グループは、マグロの眼で事件をとらえた。ビキニの水爆実験の瞬間の海の中はどうだったのか、生態系はどう変わったのか、釣り上げられやがて廃棄されるマグロの眼に人々の行動はどう映ったのか。説明的なセリフを減らし、象徴的な身体表現を活用した発表である。見おわったあとで、心に残るような表現を創りたかったのだという。

第五福竜丸記念館 年間10万人が訪れるという

第五福竜丸記念館 年間10万人が訪れるという

第2グループは、第五福竜丸の乗組員とその家族の視点を軸に、出漁前の団欒場面を入れた。絵本にある「わすれるのを じっと まっているひとたちがいる」という言葉をどう読むか。それを表現するために、最初と最後の場面に「忘れましょう」「忘れないで」などの声を複雑に交錯させる「コーラル・スピーク」でこちらも象徴的に表現した。

第3グループも、この出来事を忘れていいのか、と問いかける発表になった。こちらは第五福竜丸の視点から、その生涯を時系列で描く。夢の島で武藤氏が廃棄された船に出会う→カツオ船・第7事代丸時代の活気→被ばく→半年後の焼津港の様子→練習船・はやぶさ丸時代の学生たち→最初のシーンに戻り、武藤氏が保存を決意する。第5福竜丸の声は、すべてナレーションで表現される。

三つとも、ドラマ技法を駆使した見事なプレゼンテーションだった。もっと面白かったのは振り返りの議論である。いろんな課題が見えてきたからだ。たしかに、演劇的表現のもつインパクトは抜群である。ただ、ミニ舞台作品を作ることがはたして教育プレゼンなのか、という疑問もでた。プレゼンの中で、事実性をどこまで担保するのか、という問題提起だろう。

学習活動のゴールにプレゼンがくるケースが確かにある。ただ、通常の授業プロセスでは、グループ発表を素材にして全員のディスカッション/ディベートに展開するケース、また質疑応答を受けて追加のリサーチワークに取り組むケースが少なくない。そう考えると、表現のインパクトと事実性とをどう調和させるかという問題は、教育プレゼンの指導にあたって避けて通れないポイントになるのではないか。そんな風に感じた。

奄美大島の印象 (2)

内部が改装されてきれいになっている

内部は改装されてきれいになっている

奄美大島の印象を反芻しているうちに、書くタイミングを逸してしまい、そのまま年を越した。復帰60周年の特別企画展をやっている奄美博物館、笠利歴史民俗資料館、縄文の宇宿貝塚など訪ねたが、どこも閑散としている。他に客がいないのだ。その代わり、どこでも懇切な説明を聞くことができた。

西郷隆盛の流謫の家もそうである。島の北部に、龍郷湾が深く陸地に入り込んでいる地域があり、そこに2間続きの藁葺の家が残っている。汐留というどん詰まりの場所から、湾の出口に向かって北の方向に10分ばかり車を走らせると、龍郷集落についた。一本道の両側に長く家並みが続いている。だが、尋ねようにも人の姿がない。いったん集落をではずれて、真ん中辺まで引き返したら、ちょうど現当主の龍さんが、案内の幟を立てるところだった。

現当主の龍さん 屋敷を美しく掃き清めている

現当主の龍さん 屋敷を美しく掃き清めている

西郷隆盛は、流人として1859年から3年間、ここ龍郷の有力者である龍家の一角に住んだ。その間、愛加那(龍家次男の娘 本名:愛子 加那は女性の尊称)と結婚する。西郷33歳、愛子23歳、いわゆる島妻である。二人の間に、菊次郎、菊草(後の菊子)ができたが、明治になってから、どちらも西郷本家に引き取られている。菊次郎が8歳、菊子が14歳になったときである。後に、西郷菊次郎は第2代京都市長、菊草(後の菊子)は大山巌の弟・精之助の妻になった。

龍さんの説明によると、この家は、西郷が建てさせた薩摩風のもの、この新居に移転した次の日に召喚状を受け取ったので、ここで暮らしたのは2カ月足らずである。以来、1902年に亡くなるまで、愛加那がこの家で暮らすことになる。西郷から愛子にあてた一通の手紙も確認されていない、という。

龍さんのお祖父さん夫婦が、縁戚の愛子と養子縁組をしてこの家を継いだ。子どものころは、大島紬の全盛時代とあって「あっちこっちの家から機の音が響いて、賑やかさがありました」という。いまは5分の一にも足りないが、1972年には、28万反を超える生産があったらしい。

陽の傾くころ 奄美パークから立神方向

陽の傾くころ 奄美パークから立神方向

奄美は、15世紀からの「那覇世(ナハンユ)」、17世紀初頭からの「大和世(ヤマトユ)」、戦後の「アメリカ世」というように、絶えず外部の権力の支配を受けてきた。西郷がこの地にきたころは、黒糖地獄という言葉が象徴する通り、薩摩藩の苛斂誅求に苦しめられた時代である。この間の事情については、朝日新聞の神谷裕司氏が駐在員として取材した『奄美、もっと知りたい』(南方新社)の第2章「薩摩と琉球」が参考になる。ちょっと長くなるが、その内容を再構成してみよう。

1864年にゆるされて帰藩した西郷が、奄美の窮状を見かねて上申書をだし、代官らの人柄を調査してから派遣すること、島で必要なのは米であるから、米と砂糖の交換規定は厳守するよう、訴えた。島人を「毛頭人」「えびす共」と蔑視する西郷でさえ義憤を感じるほど、むごい政策がとられていたということである。

そもそもは、薩摩が1609年に琉球支配下の奄美に攻め込み、藩直轄の蔵入地にしたのがはじまりである。代官などの島役人を派遣し、地元の島役人を中間支配層として活用して、人民を統治する。公式には琉球王国のうちに置かれたままだから、幕府に内緒で収奪を強めたことになる。

夜の漁の準備 エビや魚をとる

夜の漁の準備 エビや魚をとる

1777年には、大島、喜界島、徳之島の三島を対象に、砂糖惣買入制をしく。奄美の農家から砂糖一斤を米三合の割合で交換し、大阪で4、5倍の値段で売った。経済的には奄美から莫大な利潤を得てそれを明治維新の原動力にしていったが、奄美が薩摩へ「同化」することは許さなかった。貨幣を禁止、往来も禁止、衣服など身なりは琉球風のものを強制し、姓を許された島の支配層も、幸、文、龍、里など一字姓に限定された。

年貢が払えず、借財が重なって富豪に身売りしたものも多く出た。これが「家人(ヤンチュ)」と呼ばれる、奄美独特の階層である。一種の債務奴隷と考えられている。幕末には、奄美の人口の約三分の一がヤンチュで占められる一方、三百人のヤンチュを抱える豪農も現れた。

そして神谷は、「明治になって鹿児島県が砂糖専売制度の実質的な継続を図った際には、西郷はこれに手を貸して、奄美の民衆を切り捨てたのである」と断罪している。

龍さんによると、菊次郎も西南の役にでて、右足を撃ち抜かれ、島に戻って1年余りを過ごしたという。都会で志を得なかったものが田舎に帰って再起を期すというのは、日本の近代によく見られるパターンである。ただ、本土と奄美の関係でいえば、都会・田舎、中央・地方の関係だけでなく、そこに本国・植民地関係をかぶせたようなものといえるだろう。

この家について説明を聞いていると、支配と差別の歴史がいくつもの層になって浮かび上がってくる。空地の目立つ集落をでて、町にもどる道すがら、言葉にならない複雑な感懐にとらわれた。その気分はまだ整理できないままである。