奄美大島の印象

米軍の空襲で市街の9割が焼失した

米軍の空襲で市街の9割が焼失した

奄美群島が日本に復帰してから、12月25日で60年になる。60年前、復帰を祝う市民が万歳をしたというおがみ山に登ってみた。名瀬市街のはずれにある小高い公園である。わずか90メートルの山だから、亜熱帯の植物を両脇に眺めながら、だれでも簡単にのぼることができる。名瀬港を一望するテラスまできて、山頂に「祝60」と読める大きなネオンサインが取り付けられているのを知った。

おがみ山の登り口 猫がついていくる

おがみ山の登り口 もれなく猫がついていくる

島内をレンタカーで100キロほど走ったが、思った以上に山がちである。立派なトンネルがいくつもあり、道路がすみずみまで整備されている。これが離島振興策の島、公共事業の島である証だろう。「徳田たけし」という顔写真入りの看板がこれでもかとばかり姿をあらわすせいで、いやでも奄美選挙ということばが浮かんでくる。

住用町のマングローブ林

住用町のマングローブ林

住用町など島の南部の山が赤く、龍郷町や笠利町など北へいくと青々した森が広がっている。このコントラストは、松くい虫による松枯れの影響である。被害が北に向かって広がっているように見えるのだが、ヘリコプターでの薬剤散布はせず、自然の淘汰に任せる方針らしい。

奄美空港のそばに鹿児島県の施設「奄美パーク」がある。ここの目玉は、田中一村記念美術館である。「奄美のゴーギャン」と形容される一村、そしてヤポネシア論を展開した島尾敏雄(作家 鹿児島県立図書館奄美分館館長)、広く知られる二人がどちらも島外出身者であるところが面白い。

高倉をデザインした美術館の外観

高倉をデザインした美術館の外観

美術館で一村の幼少期から晩年まで、未完の作品もふくめて80 点余りの作品を、ゆっくり時間をかけてみた。世俗的には連戦連敗ともいうべき彼の生涯だが、その一途な歩みが呼び起こす独特の感興がある。ことにわずか30点といわれる奄美時代の本画のうち、10点余りをみられるのは貴重だ。

今回は、地元の黒糖焼酎「里の曙」のラベルにも使われている「初夏の海に赤翡翠」、「不喰芋と蘇鉄」、「榕樹に虎みゝづく」などがでている。展覧会の解説で、一村が若いころから鳥のスケッチに熱心に励んだことを知った。

子どものころ、居間に奄美地方の民家の写真が貼ってあった。鬱蒼とした緑にかこまれた草ぶきの丸屋根が靄にけむっている。おそらく高倉だったのだろう。秋田のきっちり刈り込まれた萱葺屋根とは質感の違う、もっと柔らかい印象の屋根である。カレンダーだったのかポスターだったのか、いまとなっては判然としないが、ともかくもその一枚の写真がわたしに南の島への憧れを抱かせた。

樹木が屋根を覆ってきている

樹木が旧宅の屋根を覆いはじめている

だから、まだ見ぬ奄美のイメージとして浮かぶのは、美しい海ではない。まずなによりも湿潤な森であり、そこにただよう空気感だ。ただ、一村の絵をみると、森のまとわりつくような湿潤さは捨象されている。きわめて装飾性の高い画面を支配しているのは、むしろ透明な空気感である。

旧宅にあるハブよけの棒

旧宅におかれたハブよけの棒

翌日、山の麓に移築された一村の旧宅を訪ねた。小さく簡素なつくりの家である。最晩年、建物にサッシがはいり「これで雨の日にも絵が描ける」と意気込んだらしい。いまは壁板の破れから、内部のガランとした暗闇がこっちをのぞいている。

こんなにも湿気た建物で生まれた作品群が、透明な空気感をただよわせて美術館の展示室を飾っている。そのコントラストもまた不思議な印象として残った。

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