月別アーカイブ: 12月 2013

秋田明徳館高校の研修会

明石書店に『(仮題)ドラマ技法研究の最前線』の入稿をすませた。25日のことだが、それからもいろいろあって、やっと年賀状にかかっている。

松尾先生が授業のねらいを説明する

松尾先生が授業のねらいを説明する

それにしても、明徳館高校の定時制の先生たちの、フットワークの軽快さと創造性の豊かさには驚いた。同じ12月25日の教員研修会でのことだ。いま明徳館は、研修に熱心な校長・安藤巳智子先生のもとで「互見授業」に持続的に取り組んでいる。

そこで2時間半の研修を、基調講演+「ウォークの色々」などのウォーミングアップ・アクティビティ体験+ワークショップ「松尾実践をサポート!」で構成することにした。

ワークショップの素材は、すでに行われた「商業」の研究授業である。起業の相談に来た人に、生徒がコンサルタント役になって企業形態をアドヴァイスするという授業だ。当日、研究授業を参観できなかった人は、DVDを視聴して今回の研修会に臨んでいる。

ワークショップでは、松尾先生にむけて、39人の先生たち(6グループ)が研究授業とは別のバージョンを提案する。改訂のポイントは、①グルーピングの仕方、②課題とその提示の仕方、③話し合いの形式、④発表形式、⑤振り返りの仕方である。それを模擬授業で提案するところがミソだ。もちろん生徒役もみんなでやる。

これがビックリするほど面白い。理由が三つある。一つは、6グループの提案ポイントが1つとして重ならなかったこと、二つ目は、速成グループでありながら、プレゼンテーションが演技もふくめて実に闊達だったこと、三つ目は、「ティーチャー・イン・ロール(先生も演技)」や「プロムナード」などのドラマ技法が、それと知らずにごく自然に使われてしまっていることだ。

三つ目の点は、松尾実践に「専門家のマント」が使われているのが引きがねになったかも知れない。日本の教師たちが、必ずしも自覚的に方法化してきたのでないとしても、長い時間をかけて蓄積してきた知恵が、ここで露出したのだ、と感じる。獲得研の小松理津子先生のいたチームでは、なんと「コレクティブ・キャラクター(みんなで一人)」のバリエーションまで使われている。来年は、松尾先生が、このバージョンで授業をやることになった。

通信制を併設する秋田明徳館高校は、秋田県内でも特別なポジションにあるいわば実験的な性格の学校である。ここでの実践研究の成果をぜひ「明徳館モデル」として発信して欲しい、とお願いした。

安藤校長は、私の中学時代の恩師・小林卓巳先生のお嬢さんだ。帰りの新幹線では、こうしたタイミングで仕事をご一緒できる不思議さと喜びを、しみじみかみしめたことだった。人生の出会いの妙である。

『ドラマ技法研究の最前線』まえがき

3月に明石書店から刊行する(仮題)『ドラマ技法研究の最前線』の入稿時期が迫ってきた。獲得研の共同研究としては、4冊目の単行本になる。今回の本の執筆・編集に携わっているのは、会員のなかの15名だけである。しかし、いつも全部の原稿をMLにアップしながら編集を進めるやり方だから、すべての会員が、すべての原稿を読むことができるし、原稿がみごとに変容していく様子も共有できる。

執筆自体は孤独な作業だが、会員から改稿提案がアップされたり、応援コメントがでたりするから、いわばみんなを代表して原稿を書いているという具合になる。こうした経過を共有して、われわれメンバーは一緒に育っている。MLでのやり取りが、累計で優に4千通をこえるというのもうなづける。とにかく時間のかかる作業だが、このやり方が獲得研の出版物の完成度を担保しているという面も見逃せない。

まだ、改稿中の原稿もいくつかあるが、私の分担になっている「はじめに」の初稿を以下のように書いてみた。

本書は、参加型アクティビティの研究に取り組む「獲得型教育研究会」(略称=獲得研)の活動の実際を、ドラマ技法の探究に焦点化して考察したものである。ここでは、アクティビティという用語を、ゲーム、シミュレーション、プレゼンテーションなど、学習者が主体となって取り組む諸活動の総称として使っている。獲得研は、「参加型アクティビティの体系化と教師研修プログラムの開発」を目的にして、2006年に創設された研究グループである。現在は、小学校から大学まで43名の会員で構成されている。

私たちは、新しい時代の共通教養の中核に、参加型アクティビティの習得を据えたいと考えている。アクティビティの定着は、自立的学習者(=自律的市民)を育む教育の中心課題だからである。

参加民主主義が成熟するためには、一人ひとりの市民が、討議の経験を豊かにしたり、大小のコミュニティの運用に関与したりする経験が不可欠である。それは、見方を変えれば、市民が民主的な手続き(procedure)に習熟していくプロセスでもある。その手続きを教育の側面から整備すると同時に、学習者が協同することの手ごたえと味わいを体験できるような実践を創造する方策を探ること、それが参加型アクティビティの理論的・実践的研究である。

全身を駆使して取り組む探究活動、その過程で生まれるダイナミックな協同関係、豊かで深い学びの体験、それらを成立させる不可欠のツールがアクティビティである。実際のところ、なんらかのアクティビティを介在させることなしに、参加・獲得型の学びを成立させることは困難である。それは、約束事のない社会、ルールのないスポーツが、それとして成立しえないのと同様の事情である。

参加型アクティビティでは、ディスカッション/ディベート、プレゼンテーション、リサーチワークの三つがとくに重要だが、本書では、これらと並ぶ第4のアクティビティとして、ドラマワークを位置づけている。

ごく簡単にいえば、自分ではない「何か」になって考えたり、行動したりするためのツールがドラマ技法である。ドラマワークでの学びは、想像力をフル稼働させて、フィクションの世界とリアルな世界を往還する学びであり、私たちは、ドラマ技法を駆使することではじめて、現実の世界とは別の“もう一つの世界”を手にすることができるのである。

近年、これまで主流だった知識注入型の授業スタイルを見直す手がかりとして、また闊達な教育コミュニケーションを生み出す手段として、演劇的手法を日常の教育活動に取り入れる動きが活発化している。

本書の目的は、そうした流れを研究の面で加速することにある。ドラマ技法研究の最先端を切り拓いてきた獲得研の試行錯誤を振り返ることで、これから起こるだろう議論の土台を築こう、というのである。

急速に状況が変わりつつあるとはいうものの、ドラマ技法の研究は、教育方法の研究としてはほとんど未開拓の分野だったといってよい。そのため獲得研では、あえてドラマ技法の体系化という理論性の強い研究と、ドラマ技法の活用・普及という実践性の強い研究を並行して進めることにした。このことは、一つのグループが、基礎研究と応用研究に同時に取り組むような、困難で時間のかかる道のりになることを意味していた。

こうした事情から、本書の第1の特徴は、実践事例を豊富に盛りこんだ研究書だという点にある。具体的にいえば、紙面の多くを占める論考が、「異文化間教育学会第34回大会」(2013年6月8―9日 日本大学文理学部)の二つのプログラムに関わるものである。

一つは、公開シンポジウム「学びの身体性を問う―教育コミュニケーションと演劇的知の視点から」の報告である。ここでの実践報告と実践へのコメントおよび総括が、本書の第2章、第3章になっている。もう一つは、大会のプレセミナー「獲得型授業をめざす教師のためのドラマ技法活用講座」のワークショップ「ドラマを通して考えるハックルベリー・フィンの冒険」の報告である。その実況中継と振り返りの論考が、第4章、第5章になっている。

本書は、これらの内容を、第1章と第6章・第7章の内容が挟みこむかたちの構成である。まず第1章で、共同研究のバックボーンとなる獲得型教育の理論を総合的に考察している。一方、第6章では、獲得研の共同研究の独自性をさまざまなエピソードとともに分析し、さらに第7章で、これまでの研究の展開過程を具体的資料によって一望する、というものである。

この構成とも関係するが、本書の第2の特徴は、収録されている論考の多くが、研究の目標や結果を叙述するのと同じような比重で、実践の生成過程といういわばメタの部分を丁寧に描いていることである。それは、獲得研の研究体制の特質に由来している。

獲得研では、校種や担当教科の違いを超えて、すべての会員が、実践的研究者・研究的実践者として対等な立場で研究に携わっている。そのため、小学校の実践に触発されて、高校や大学で同じテーマの授業が行われたり、その逆だったりということが、日常の風景となっている。また、あえて専門領域や教科を超えたチームをつくり、ドラマワークや実験的授業プログラムの開発に挑戦してきた。異文化接触でおこるスパークが、思いがけない発想の飛躍を生み、研究にはずみをつける役割を果たすからである。こうした共同研究のダイナミズムを実態として分析するには、メタの部分を丁寧に描く必要がある、と考えたのである。

執筆者のラインアップも、会員の多様なバックグラウンドを反映している。当然のこと、想定される読者層も、小学校から大学まで、あらゆる校種の教員ということになるのだが、むしろそうした教育関係者だけでなく、教育に関心をもつ市民、学生の方々にも広くアピールできる内容になった、と考えている。

8年間におよぶ共同研究の成果である本書が、日本のアクティビティ研究の一里塚となり、研究のさらなる活性化に寄与できれば、と願っている。

奄美大島の印象

米軍の空襲で市街の9割が焼失した

米軍の空襲で市街の9割が焼失した

奄美群島が日本に復帰してから、12月25日で60年になる。60年前、復帰を祝う市民が万歳をしたというおがみ山に登ってみた。名瀬市街のはずれにある小高い公園である。わずか90メートルの山だから、亜熱帯の植物を両脇に眺めながら、だれでも簡単にのぼることができる。名瀬港を一望するテラスまできて、山頂に「祝60」と読める大きなネオンサインが取り付けられているのを知った。

おがみ山の登り口 猫がついていくる

おがみ山の登り口 もれなく猫がついていくる

島内をレンタカーで100キロほど走ったが、思った以上に山がちである。立派なトンネルがいくつもあり、道路がすみずみまで整備されている。これが離島振興策の島、公共事業の島である証だろう。「徳田たけし」という顔写真入りの看板がこれでもかとばかり姿をあらわすせいで、いやでも奄美選挙ということばが浮かんでくる。

住用町のマングローブ林

住用町のマングローブ林

住用町など島の南部の山が赤く、龍郷町や笠利町など北へいくと青々した森が広がっている。このコントラストは、松くい虫による松枯れの影響である。被害が北に向かって広がっているように見えるのだが、ヘリコプターでの薬剤散布はせず、自然の淘汰に任せる方針らしい。

奄美空港のそばに鹿児島県の施設「奄美パーク」がある。ここの目玉は、田中一村記念美術館である。「奄美のゴーギャン」と形容される一村、そしてヤポネシア論を展開した島尾敏雄(作家 鹿児島県立図書館奄美分館館長)、広く知られる二人がどちらも島外出身者であるところが面白い。

高倉をデザインした美術館の外観

高倉をデザインした美術館の外観

美術館で一村の幼少期から晩年まで、未完の作品もふくめて80 点余りの作品を、ゆっくり時間をかけてみた。世俗的には連戦連敗ともいうべき彼の生涯だが、その一途な歩みが呼び起こす独特の感興がある。ことにわずか30点といわれる奄美時代の本画のうち、10点余りをみられるのは貴重だ。

今回は、地元の黒糖焼酎「里の曙」のラベルにも使われている「初夏の海に赤翡翠」、「不喰芋と蘇鉄」、「榕樹に虎みゝづく」などがでている。展覧会の解説で、一村が若いころから鳥のスケッチに熱心に励んだことを知った。

子どものころ、居間に奄美地方の民家の写真が貼ってあった。鬱蒼とした緑にかこまれた草ぶきの丸屋根が靄にけむっている。おそらく高倉だったのだろう。秋田のきっちり刈り込まれた萱葺屋根とは質感の違う、もっと柔らかい印象の屋根である。カレンダーだったのかポスターだったのか、いまとなっては判然としないが、ともかくもその一枚の写真がわたしに南の島への憧れを抱かせた。

樹木が屋根を覆ってきている

樹木が旧宅の屋根を覆いはじめている

だから、まだ見ぬ奄美のイメージとして浮かぶのは、美しい海ではない。まずなによりも湿潤な森であり、そこにただよう空気感だ。ただ、一村の絵をみると、森のまとわりつくような湿潤さは捨象されている。きわめて装飾性の高い画面を支配しているのは、むしろ透明な空気感である。

旧宅にあるハブよけの棒

旧宅におかれたハブよけの棒

翌日、山の麓に移築された一村の旧宅を訪ねた。小さく簡素なつくりの家である。最晩年、建物にサッシがはいり「これで雨の日にも絵が描ける」と意気込んだらしい。いまは壁板の破れから、内部のガランとした暗闇がこっちをのぞいている。

こんなにも湿気た建物で生まれた作品群が、透明な空気感をただよわせて美術館の展示室を飾っている。そのコントラストもまた不思議な印象として残った。