月別アーカイブ: 9月 2013

国際教育系の研究会

公開シンポジウム 左端が羽田先生

公開シンポジウム 左端が羽田先生

週末、国際教育系の二つの研究会に参加した。土曜日は、「日本国際理解教育学会」研究・実践委員会/第1回公開研究会(愛知 名古屋市・椙山小学校)で「理論と実践の統合、実践を臨床的に研究する理論の構築」というテーマで報告し、日曜日は「日本国際教育学会」第24回大会・公開シンポジウム「学校における国際教育の実践と課題」(日本大学文理学部)でモデレーターの仕事をした。

国際理解教育学会(1991年創設)の方は会員の3割を現場の実践者が占めているが、国際教育学会(1990年創設)は主に大学の研究者で構成されている。それもあって、教育実践を真正面から公開シンポジウムのテーマに掲げるのは初めてだったらしい。

私は会員でないのだが、大会実行委員長をつとめた研究室の羽田積男教授(高等教育論)の発案でこの企画が実現した。

シンポジストの4名はいずれも獲得研のメンバーである。関根真理さん(啓明学園)が13年におよぶ「国際理解の日」の取り組みを、早川則男さん(中村高校)が1年間の海外留学を卒業要件にしている国際科での模索を、和田俊彦さん(跡見学園)がオーストラリアの語学研修の取り組みを、オユナさん(モンゴル国立大学)が公立小学校での留学生講師の授業を素材にして報告した。

シンポジウムを聴いた宮崎さんが四者四様と評した通り、内容が多彩なだけでなく、それぞれのライフストーリーが報告に投影しているところが興味深かった。また、会場からのたくさんの質問に実に手際よく応答する。堂々たるものだ。これなら、全国どこででも即座にシンポジウムを開けるだろう。

フロアから発表を聴いていたら、ひとつの感懐がうかんできた。こんな連想からだ。和田さんとは1980年代に国際理解教育の焦点だった帰国生教育の現場で教師・生徒として出会っている。早川さん、関根さんとは1990年代に国際教育の牽引役をつとめていた全国私学の研修会で出会った。この3人と一緒に獲得研の原点となる国際教育教材「中高生のためのアメリカ理解入門」(明石書店 2005年)の開発にあたった。そしてオユナさんとは2000年代に出会い、彼女が獲得研の教材開発・授業研究・教師研修の方式をモンゴルに導入する先進的役割を果たしている。

そんなこんなを考えているうちに、この4人のラインアップが、獲得研のこれまでの歩みとこれからの姿をそのまま凝縮するものとして見えてきた。

日本の国際教育の実践も実践研究も大きな転機に差し掛かっている。これからどんな方向に歩んでいくべきなのか、そのことを考えた2日間だった。

にほんごじんフォーラム2013

タイ、ベトナムの先生たちと

タイ、ベトナムの先生たちと

9月17日に、アジア6カ国の高校生が、“便利さ”をテーマに日本語で研究発表する催しがあった。会場は、北浦和の国際交流基金日本語国際センター。「にほんごじんフォーラム2013」(国際交流基金・かめのり財団主催 9月10―18日)の一環である。

参加したのは、日本の高校生4名とインドネシア、フィリピン、ベトナム、タイ、マレーシアの日本語学習者たち20名。4つの混合チーム(各6名)が、「からだが不自由な人にやさしい町」「交通に便利なもの」などそれぞれトピックを選んで発表した。スライドで便利グッズをみせたり、スキットで場面を演じたりと、観客を楽しませる工夫がされている。

「日韓米グローバルクラス」(国際文化交流推進協会主催 1999年 オリンピック・センター)で、3ヶ国の高校生に“大都市東京と自然”というテーマの演劇的プレゼンテーションをしてもらったことがある。多文化・多言語のプロジェクト学習である。プロジェクト学習という構造は同じだが、今回は日本語でプレゼンテーションするところが特徴だ。

そもそも「にほんごじんフォーラム」には、10年かけてアジアに日本語を話す若者のネットワークをつくろう、それをプロジェクト学習での共通体験を通して実現しよう、という壮大なプランがある。そのためには、若者の交流の場をつくるだけでは十分でない。プロジェクト学習を指導する先生たちの養成が大事になる。

そこで昨年のフォーラムでは、まずアジアの先生たちが“お弁当”をテーマにプロジェクト学習を経験した。今年は、生徒の学習活動と先生たちの研修を入れ子にしている。日本語センター側が指導するプロジェクト学習をアジアの先生たちに観察してもらい、それを手がかりにして、各国別の教育プログラムを提案してもらうのだ。

今年のフォーラムは、日本側にとっても大きなチャレンジである。もっぱら教師研修を担ってきたスタッフが多国籍の高校生を指導するだけでも大変なのに、プロジェクト学習の指導ができる教師も育てる、という2重の課題を背負ったからだ。

「にほんごじんフォーラム」は、参加者みんなが手探りであるところが面白い。未知の領域にふみだすこういう実験的取組みはワクワクものだ。アジア5カ国でこれからどんな日本語教育の実践がうみだされるのだろうか。

企画がはじまったときから外部評価委員としてウォッチしているが、これまでもっぱらプロジェクトをうごかす側で仕事をしてきたものだから、ついつい実践者や生徒に寄り添いたくなってしまう。距離の取り方を模索しながら、この新しいチャレンジをしばらく見守りたいと思っている。

大学院のゼミ旅行―奈良京都

龍谷大学・大宮校舎

龍谷大学・大宮校舎で

2泊3日で、京都奈良に大学院「教育内容論」のゼミ旅行をした。初日は、東寺と西本願寺。2日目が、東大寺、春日大社、興福寺。3日目が大徳寺周辺と京都市中散歩というプログラムである。

目的地につくと、まず院生の調査報告があり、そのあとで仏像・建築を中心に実物をみる。順不同ではあるが、全体を通して天平時代から室町時代までの文化史にふれる構成になっている。

毎日よく歩いた。しかもこの猛暑である。汗を絞るような研修になってしまったが、院生たちは最後まで精力的だった。もう一人のゼミ生・津田くんが仕事の都合で不参加。そこで彼のために、男子だけで事前に九州旅行をしたというから、いいチームワークができている。

夕暮れ時の興福寺で

夕暮れ時の興福寺で

ロンドン・パラリンピックの水泳で活躍した木村敬一くんも、今春大学院にすすんだ。2020年の東京オリンピック・パラリンピックが決まった日、夜通しテレビを観ていて、東京に決定した瞬間はさすがにゾクッとしたという。NHKのインタビューで「これを機会にパラリンピック競技に対する国民の理解が深まってほしい」とコメントしている。

京都はともかく奈良の古寺めぐりは久しぶりである。町の様子が少しあかぬけてみえたのは平城京遷都1300年のイベントをくぐったせいだろうか。

裏寺町「静」 落書きが圧巻

裏寺町「静」 落書きが圧巻

ただ、湖月の閉店には驚いた。近鉄奈良駅前の湖月は名物「みかさ焼」で知られる和菓子屋である。東京・神楽坂下の紀の善と並んで、わたしは湖月のこし餡が大好きだ。奥の喫茶室で小休止するのが、奈良行きの楽しみの一つでありまた長いあいだの習慣でもあったから廃業が残念でならない。

2年生の幹事・湯浅朝水さんを中心に、ゼミ旅行まで長い準備期間があった。楽しい余韻が続いているものの、終わってみると3日間はアッという間である。2年生はこれから修士論文の追い込みにはいる。

初海茂さんと男性合唱団エルデ

初海ファミリーと久しぶりに再会

初海ファミリーと久しぶりに再会

日曜日に「創立30周年・東日本大震災復興支援 男性合唱団エルデ第10回定期演奏会~つながる・響きあう」がオリンパスホール八王子であった。2年に一度の大きな発表会とあって、1200人の聴衆がつめかけ、2階席までいっぱいになった。地域合唱団でこれだけの観客を集めるのは稀だという。

獲得研事務局長の初海茂さんがここでテナーを担当している。初海さんは、学生時代からかわらず歌好きである。

いつだったか、閑散とした東北自動車道で「夏の思い出」など思いつくままにハモっていたら、目的のランプを通り過ぎてしまい、大騒ぎになったことがある。まだ、東北自動車道の工事が栃木あたりで止まっていたときのことだ。

エルデはとても元気である。団員は30人ほど、平均年齢68歳。ひごろから被災地に花を贈る活動も続けていて、今回のプログラムにも東北民謡が4曲入っている。

休憩をはさんで2時間。組曲「雪明りの路」、日本民謡、日本の歌、ミュージカル「学生王子」と4つのステージをこなす。

ステージごとに、スーツ、はっぴ、カラフルなシャツと着替える。手ぬぐい、ジョッキ、花束など小道具をつかった振付もはいるから、明るくにぎやかな演奏になる。

なによりいいのはエルデの団員が歌うことを本当に楽しんでいて、それが聴衆にも伝わってくることだ。こうした合唱団が地域に根をおろしているのは、素晴らしい。

池田香代子さん―第1回「著書を語る・著者と語る」

百人の村 002きのう先輩の高村幸治さん(元岩波書店編集部長)のおさそいで池田香代子さんと語る会に参加した。限定45名。武蔵野公会堂の会議室は、30年前に「美術の会」の例会をやっていたところなのでなんだか懐かしい。

会の名称は、出版NPO「本をたのしもう会」が主催する第1回「著書を語る・著者と語る」。大きな講演会を10年間続けてきた団体が、より親しみやすい企画をとはじめた催しである。1時間ほど著者がかたり、1時間半ほど著者と語る。

配布資料をみると池田さんの作品は翻訳書だけで120冊ある。大変な仕事量だ。『夜と霧』、『ケストナー全集』など良く知られている作品の刊行の経緯を、池田さん自身の人生と重ねて紹介してくれる。これが話の中心だが、実物も見せてくれるからいっそう興味がひかれる。

ミリオンセラー『世界がもし100人の村だったら』の出版はもともとアフガニスタンの中村哲さん(医師)の事業に寄付するお金をえようとしてはじめたものだったとのこと。この仕事を通して池田さん自身の人生が変わり、社会派への道を歩き始めることになる。

池田さんは、『グリム童話』(全5巻)の担当編集者が自分の“第一発見者”だという。この編集者が、初対面の池田さんに「ようやく(ふさわしい人を)みつけました」といったらしい。翻訳者冥利。意気に感ぜざるをえない。私にも似たような経験があるのでよく分かる。はじめての単著『討論や発表をたのしもう―ディベート入門』(ポプラ社)の編集者・杉浦純子さんとの出会いのことだ。これについては別の機会に。

質疑応答のなかで、高村さんがある雑誌にのったエピソードを紹介してくれた。それによると、中村元先生(仏教学)のご遺族が、『ソフィーの世界』を先生のお棺におさめた。中村先生は『ソフィーの世界』がよほどお気に入りだったらしい。日頃から「こんな風にやさしく書くことを自分も勉強しなくては」と語り、出張の荷物に入れるほど愛読していたのだという。

波長のあう作品だけを選ぶ、自分の頭で分かるように翻訳する、これが仕事に対する池田さんの姿勢である。そうした姿勢がこのエピソードにつながったのだろう。

今回の演題は「いま、私を突き動かすもの―憲法、原発、教育、メディア、そしてアウシュビッツ」とある。長い。いくら池田さんが護憲運動の先頭にたって発信したり、福島の被災者のサポートに奮闘したりしている方とはいえ、いささか論点過多ではと心配したが、それは杞憂だった。

池田香代子さんの話をうかがうのは8年ぶりだ。2005年に全国私学・国際教育研修会で「100人の村から見えること」と題して講演していただいた。そのときよりも今回の方がずっとリラックスしておしゃべりしている。

仕事も人生も出会いの連鎖で成り立っている。“変わらない人生はない”というのが池田さんの確信だが、数々の出会いを通して変貌を重ねてもなお変わらないものがある。池田さんにあって変わらないものはその凛とした姿勢だろう、そんなふうに感じた。