日別アーカイブ: 2013/08/18

与那国島―Dr.コトーとクブラバリ

入院室 窓の外は比川浜

Dr.コトーの入院室 窓の外は比川浜

たしか有吉佐和子の『日本の島々、昔と今。』だったと思うが、与那国島が台湾との密貿易で賑わったことが書かれていた。戦後のほんの一時期のことだ。台湾の漁民が煙草を買いにふらっと立ち寄ったという話もあったから、そんな近しい感覚が双方にあったのだろう。そのころは人口も1万人をこえていたらしい。ちなみに、いまの与那国町の人口は1557人(本年7月現在)である。

4年前の秋に現地にいくまで、与那国について私が知っていることはごくわずかだった。町役場と観光協会がつくった「Dr.コトー診療所ロケ地マップ」に集落が3つ紹介されている。役場のあるいちばん大きい集落が祖納、漁協と海底遺跡見学のグラスボート乗り場があるのが久部良、そしてDr.コトー診療所のセットがあるのが比川である。

与那国島は小さな島だがじつに変化に富んだ海岸線をもっている。番組のタイトルバックで、中島みゆきが歌う「銀の龍の背に乗って」が流れ、白衣のコトー先生が自転車を走らせる。やがて自転車は緑の牧場を通る一本道へ、その足元には断崖と岸を洗う白い波が広がっている。走っている方向からみて、コトー先生は比川から久部良に向かっていることになる。ここで使われた道路が南牧場線で、その海岸線こそ与那国島の典型的風景である。

私はまず久部良の集落のはずれにあるクブラバリにいこうと思った。妊婦をとばせて人減らしをしたといわれる場所、人頭税の過酷さを象徴する遺跡だ。

南牧場線は太平洋側だが、クブラバリは目の前に東シナ海が広がる断崖の上にある。より正確にはクブラフルシという巨大な岩石の上にできた自然の裂け目がクブラバリである。幅約3メートル、深さ約7メートルの断層になっている。このあたりから日本最西端の夕日が眺められる。

クブラフルシの上までいくと、むこうで2頭のヨナグニ馬が草を食んでいるのがみえた。その先に、廃工場の土台と思しきコンクリートの残骸が広がっている。クブラバリを探したが、あたりにもやもやと植物が茂っているばかりで、尋ねようにも人の気配がない。すぐそばまでこないと分からないような場所である。このあたりはよほど風が強いとみえて、くぼみの底から棕櫚のような樹木が何本も枝をのばしているものの、地表近くまできて成長をとめている。

立神岩は比川集落のさらに東側の海岸にある

立神岩は比川集落のさらに東側にある

池間栄三『与那国の歴史』(1974年)によると、琉球王府が先島に人頭税を割り当てたのが1637年のことである。島津藩が琉球国からの搾取を強めたのが引きがねになった。王府による米納の割り当てがどんなに厳しいものだったのか、それは風害、潮害あるいは不利不便で耕作放棄されてしまった、無数の廃田跡があることからわかる。このため他殺・自殺・脱島逃亡などで人口が年々へっていき、1651年には与那国の納税者が124人になったという。

薩摩からはじまった苛斂誅求の手が西へ西へとのびていくうちに、どんどん抑圧が強まっていき、ついには最西端の地でどんな悲劇を生むことになったのか、クブラバリの遺跡がそれを物語っている。人頭税はなんと1903年(明治36年)まで続いた。

むこうにいた馬のうちの一頭が、私の方にむかってゆっくり歩いてきた。人恋しいのか、しきりに顔をよせてきてなかなか立ち去ろうとしない。クブラバリを離れて駐車場へ向かう間もなおしばらく後をついてきた。

クブラバリには久部良中学校の横を通っていく。広々した校庭で若い男の先生が芝刈り機を動かしていた。近々、運動会があるらしい。立ち話で「ここの先生たちの半分は、沖縄本島から来ているひとです」ときいた。みな3年ほどで帰るらしい。そう教えてくれた彼もそろそろ石垣に戻る時期なのだという。

10月末の与那国島に観光客の姿はまばらである。閑散とした島を立派な自動車道路が貫いている。日本のどこの地方にもみられる公共事業依存の経済体質がすけてみえる。この夏、与那国町を二分する町長選挙が話題になったが、自立に向けて過疎の島の未来をどう描くのか、その延長上の問題だと聞く。

東京に戻ってから、写真のなかにほとんど人影がないことに気づいた。(次回は、祖納集落のことを書いてみる。)