月別アーカイブ: 8月 2013

インターアクト年次大会のワークショップ

左から時計回りに、青木さん、関根真理さん(啓明学園)、田ヶ谷省三さん、福山一明さん、早川則男さん

左から時計回りに、青木幸子さん、関根真理さん(啓明学園)、田ヶ谷省三さん、福山一明さん、早川則男さん

あかり座でいろんな試みをしてきた。今回のチャレンジは、参加高校生160人という大規模ワークショップだ。生徒が都下の8つの学校から集まってくる。短い時間で彼らの距離をどこまで縮められるのか、それがポイントになる。

「国際ロータリー第2750地区・第33回インターアクト年次大会」(ホストクラブ:啓明学園インターアクトクラブ、スポンサークラブ:東京昭島ロータリークラブ 参加者375名)が、8月24日(土)にフォレスト・イン昭和館で開かれた。文字通り森に囲まれた静寂な空間である。

担当したのは、関係性をときほぐすワークショップを午前中1時間、午後に講演「ボランティア活動を通して国際理解を考える」とワークショップの組み合わせで2時間、合計3時間である。20チーム(×8人)のメンバーは、午前中にランダムに決めた。

会議場から通路まで使って同時進行

会議場から通路まで使って同時進行

午後のワークショップは「〇〇レンジャーになってみよう!!」。3枚の静止画で、ボランティア活動の手ごたえを表現する。①困っているシーン、②救助シーン、③レンジャーの決めポーズという展開だ。レンジャーを登場させるという愉快なアイディアを、青木幸子さん(昭和女子大学)が考えた。

冒頭の写真は、モデルプレゼンテーションの3番目のシーンである。いじめを解決したレンジャーたちが、会場にハート形の「友情ビーム」を発射する。これが決めポーズだ。演じたのは、啓明高校生とあかり座メンバー。中原道高さん(目黒高校)の撮ったこの一枚に、大会の雰囲気が凝縮されている。

午前中は、いったい何がはじまるんだろう、という不安げな顔、顔、顔。同じ学校の生徒の群れがいくつもできた。重苦しい雰囲気が「あっちこっち」「二つのホント一つのウソ」「負けジャンケン」などで徐々にほぐれていく。

やる気ビーム発射!

やる気ビーム発射! ビームが広がる様子を表現

午後のワークショップにはロータリアンも加わって、多種多様なレンジャーが出動した。紛争を解決する「和解レンジャー」、世直しをする「水戸黄門レンジャー」、無気力を克服させる「やる気レンジャー」、喧嘩する男の子にお説教する「ガールズレンジャー」、町をきれいにする「清掃戦隊レンジャー」などだ。決めポーズがまた面白い。相当な手ごたえだったようで、みんなで協力できたこと、他校生と交流が深まったことが良かった、というコメントがたくさんあった。

はじめてにしてこのダイナミックな構図はなかなかのもの

はじめてにしてこのダイナミックな構図はなかなかのもの

ハードルをクリアできた要因はいろいろあるが、あかり座メンバーのサポートが大きい。今回は20の混成チームが同時進行で作業を進める。いっこうにアイディアがでないチーム、共同作業が苦手で引っ込んでしまう生徒がいるチームなど、おのずから個性がでる。

私が感心するのは、メンバー6人で事前にだれがどこのチームを担当すると決めるのではなく、気づいた人が随時手をさしのべるやり方をしていることだ。それが阿吽の呼吸でできてしまうところがすごい。

かくも成熟したチームワークはどうしてできたんだろう、いつも思うことである。

池間苗さんと与那国

(前回の続き。)池間苗さんがひとりでやっている「与那国民俗資料館」が祖納集落にある。資料館といっても、ごく普通の民家である。苗さんはことし90歳。私の指導教授の武田清子先生と同い年ということになる。

ティンタハナタから ナンタ浜はもっと広かったという

ティンタハナタから ナンタ浜はもっと広かったという

道路に面して、右手に真新しい郵便局、左手に廃墟然とした旧郵便局がある。その間に立つと敷地の奥まったところにコンクリートの二階家がみえる。大きめの玄関ホールが展示スペースになっていて、三面の棚、部屋の真ん中におかれたショーケースに、衣類、什器、農具、玩具などがつまっている。戦前・戦中・戦後の暮らしをささえてきた品物である。

前回の記事で『与那国の歴史』を参照した。この本は苗さんの実父である新里和盛氏が起稿し、夫の池間栄三氏がほぼ完成させ、夫の死後は苗さんが原稿を整理して刊行にこぎつけたものである。その間になんと32年の歳月がたっている。

資料館の入り口におかれた机が、苗さんの受付兼応接スペースである。ここでは展示品と苗さん自身の体験が不可分に結びついている。例えば植民地時代の台湾からもちかえったホーロー製の花柄の食器は、小学校5年生のときはじめてみた台湾のデパートのきらびやかなイメージとつながっている。

だから資料館に足をふみいれる訪問者は、必然的に彼女の人生にふれることになる。苗さんの父上は地元の郵便局長だった。彼女は10人きょうだいの一人で、沖縄本島の第1高等女学校をでてから電信を扱う通信士の仕事につく。戦後は医師だった池間氏の仕事を手伝っていたが、過労がもとで栄三氏が65歳で亡くなってしまう。この土地は実家のあったところで、いまは苗さんのご子息が郵便局長である。

飛び飛びに聞き取った情報を再構成したらこうなった。このなかに興味深い話がいくつもでてくる。女学校では差別を警戒して与那国出身者だと明かさなかったこと、米軍の上陸用舟艇がきたとき苗さんたち家族がティンタハナタの山に逃げ、父親の和盛氏が島を代表して通訳にたったこと、密貿易時代はこの屋敷の背後にあたるナンタ浜が物資の荷揚げ場所だったこと、『与那国の歴史』の著者である栄三氏が島のことばを一切話さないひとだったことなどだ。苗さんの話から浮かび上がってくるのは、戦前からつづく島のインテリ家庭の暮らしぶりである。

与那国の旅から戻って知ったのだが、司馬遼太郎『街道をゆく6 沖縄・先島への道』が、苗さんの55歳のころの風貌を活写している。司馬さんが来島した1974年ころ、苗さんは与那国空港で民芸品を扱う売店をやっていた。

タクシーがなくて困っている司馬さんたちに、たまたま苗さんが自分のライトバンに同乗するようにすすめ、宿まで送っていくことになる。そのくだりを引用してみよう。

「どうせ家に帰るついででございますから」と彼女はドアをあけ、助手席のもたれを前に倒し、動作の鈍い私と須田さんをねじこむようにして押し入れてくれた。彼女は戦前の成人者にしては背が高く、洋服のよく似合うひとだった。その背のわりには小さすぎる自動車だったが、ブレーキをたおすとすばやく始動し、勢いよく走りだした。諸事きびきびしていた。そのくせ、物腰も物の言い方もゆっくりしていて、いかにも昭和初年ころに良家で育ったひとの良さをすべて身につけているような感じだった。(改行省略)

こうして司馬さんの文章を書き写してみると、なるほどわたしがうけた印象とつながってくる。別れ際に90歳と知って驚いたが、話している間はもっとずっと若い年齢と思いこんでいた。それほどかくしゃくとしている。

経済交流・文化交流の中継点の役割を果たした与那国に、たくさんのひとが訪れそして去っていった。もともと住んでいたひとも多く島を離れた。苗さんはどれだけの人を見送ってきたのだろう。

「この島に生まれたことを恨みました」とこちらがドキリとする表現を使う。しかしすぐに、色々な経験ができたからいまは良かったと思っている、と続ける。どちらも本当の気持ちだろう。

沖縄本島まで509キロ、石垣島でさえ127キロのかなたである。だからこの島では、ひとを見送るということに格別の意味があったにちがいない。

東崎

東崎の灯台も断崖のうえにある

以前は、出航の前夜に、人々が旅立つ人を囲んでナンタ浜に集ったという。そして明日はさよならが言えないからという歌詞のついた送別の歌をうたいそして踊る。当日の朝は、みんなで船を見送る。健脚の若者たちは、その足で数キロ先の東崎まで駆けていき、岬にたって沖をいく船に大きく手をふった。

美しい旅立ちの光景である。静かな満月の浜辺で歌い踊る人々の姿、坂道を駆けのぼる若者たちの姿が、脳裏にシルエットとなってうかんできた。

閉館時間を気にするわたしを、苗さんが外まで送りにでてくれた。ゆっくり歩いて敷地をぬけ、郵便局をすぎ、つぎのT字路のうえで別れた。

いまきた道と直角にまじわる通りをどんどん歩き、ふとふりむくと、苗さんがまだT字路のうえにたたずんでいた。

与那国島―Dr.コトーとクブラバリ

入院室 窓の外は比川浜

Dr.コトーの入院室 窓の外は比川浜

たしか有吉佐和子の『日本の島々、昔と今。』だったと思うが、与那国島が台湾との密貿易で賑わったことが書かれていた。戦後のほんの一時期のことだ。台湾の漁民が煙草を買いにふらっと立ち寄ったという話もあったから、そんな近しい感覚が双方にあったのだろう。そのころは人口も1万人をこえていたらしい。ちなみに、いまの与那国町の人口は1557人(本年7月現在)である。

4年前の秋に現地にいくまで、与那国について私が知っていることはごくわずかだった。町役場と観光協会がつくった「Dr.コトー診療所ロケ地マップ」に集落が3つ紹介されている。役場のあるいちばん大きい集落が祖納、漁協と海底遺跡見学のグラスボート乗り場があるのが久部良、そしてDr.コトー診療所のセットがあるのが比川である。

与那国島は小さな島だがじつに変化に富んだ海岸線をもっている。番組のタイトルバックで、中島みゆきが歌う「銀の龍の背に乗って」が流れ、白衣のコトー先生が自転車を走らせる。やがて自転車は緑の牧場を通る一本道へ、その足元には断崖と岸を洗う白い波が広がっている。走っている方向からみて、コトー先生は比川から久部良に向かっていることになる。ここで使われた道路が南牧場線で、その海岸線こそ与那国島の典型的風景である。

私はまず久部良の集落のはずれにあるクブラバリにいこうと思った。妊婦をとばせて人減らしをしたといわれる場所、人頭税の過酷さを象徴する遺跡だ。

南牧場線は太平洋側だが、クブラバリは目の前に東シナ海が広がる断崖の上にある。より正確にはクブラフルシという巨大な岩石の上にできた自然の裂け目がクブラバリである。幅約3メートル、深さ約7メートルの断層になっている。このあたりから日本最西端の夕日が眺められる。

クブラフルシの上までいくと、むこうで2頭のヨナグニ馬が草を食んでいるのがみえた。その先に、廃工場の土台と思しきコンクリートの残骸が広がっている。クブラバリを探したが、あたりにもやもやと植物が茂っているばかりで、尋ねようにも人の気配がない。すぐそばまでこないと分からないような場所である。このあたりはよほど風が強いとみえて、くぼみの底から棕櫚のような樹木が何本も枝をのばしているものの、地表近くまできて成長をとめている。

立神岩は比川集落のさらに東側の海岸にある

立神岩は比川集落のさらに東側にある

池間栄三『与那国の歴史』(1974年)によると、琉球王府が先島に人頭税を割り当てたのが1637年のことである。島津藩が琉球国からの搾取を強めたのが引きがねになった。王府による米納の割り当てがどんなに厳しいものだったのか、それは風害、潮害あるいは不利不便で耕作放棄されてしまった、無数の廃田跡があることからわかる。このため他殺・自殺・脱島逃亡などで人口が年々へっていき、1651年には与那国の納税者が124人になったという。

薩摩からはじまった苛斂誅求の手が西へ西へとのびていくうちに、どんどん抑圧が強まっていき、ついには最西端の地でどんな悲劇を生むことになったのか、クブラバリの遺跡がそれを物語っている。人頭税はなんと1903年(明治36年)まで続いた。

むこうにいた馬のうちの一頭が、私の方にむかってゆっくり歩いてきた。人恋しいのか、しきりに顔をよせてきてなかなか立ち去ろうとしない。クブラバリを離れて駐車場へ向かう間もなおしばらく後をついてきた。

クブラバリには久部良中学校の横を通っていく。広々した校庭で若い男の先生が芝刈り機を動かしていた。近々、運動会があるらしい。立ち話で「ここの先生たちの半分は、沖縄本島から来ているひとです」ときいた。みな3年ほどで帰るらしい。そう教えてくれた彼もそろそろ石垣に戻る時期なのだという。

10月末の与那国島に観光客の姿はまばらである。閑散とした島を立派な自動車道路が貫いている。日本のどこの地方にもみられる公共事業依存の経済体質がすけてみえる。この夏、与那国町を二分する町長選挙が話題になったが、自立に向けて過疎の島の未来をどう描くのか、その延長上の問題だと聞く。

東京に戻ってから、写真のなかにほとんど人影がないことに気づいた。(次回は、祖納集落のことを書いてみる。)

 

柳生街道の二人

柳生街道をそれて地獄谷にむかう斜面を下りはじめたが、途中でだんだん後悔の念がつのってきた。1993年、晩秋の午後のことである。思った以上に谷が深いのだ。ギザギザ道の急斜面がえんえん続く。ジャケットにステッキ代わりの雨傘といういでたちが、いかにも不似合いな状況である。急坂のカーブを曲がろうにも、革靴ではブレーキが利かない。

わたしの前にも後ろにも、人の気配というものが全くない。円成寺から奈良市内まで、柳生街道を何度か歩いているが、ひとりでくるのは今回が初めてだ。日差しがじょじょに弱くなって、ひと昔前なら、追剥でもでそうな雰囲気になっている。

いっそ街道まで戻ろうかとも思うのだが、いまきた急坂のことを考えると決心がつかない。とつおいつ迷ううちに、頭上から人声が聞こえてきた。それがぐんぐん近づいてくる。やがて現れたのは70年配とみえる男性が二人、こなれた山歩きの格好をしている。さっき、峠の茶屋で名物の味噌汁を飲んだとき、座敷の奥で休憩していた人たちだ。地獄に仏とはこのことである。

それで奇妙な取り合わせの三人組ができた。正倉院展をみたついでの街道歩きだと話すうち、だんだん会話が弾みだした。リタイア組と見えたがどうもまだ現役らしい。長身の男性は天王寺のあたりで機械工具商をしている。小柄でがっしりした男性は難波で食堂を営んでいる。一方が社交的で、他方が寡黙な印象である。

二人は古くからの友人で、日帰り圏の山によく一緒に登るという。どおりで健脚なわけだ。リュックにつめた缶ビールが1本、「これを山の上で飲むのが何より楽しみで」と声をそろえる。なんともうらやましい友人関係である。

前になり後になりして歩きながらそんな話を聞いた。首切り地蔵の横を通り、石ころだらけの滝坂道を過ぎ、高畑の旧志賀直哉邸にでるころにたそがれ時になった。破石のバス停で市内循環バスをまつあいだ、つかの間の沈黙が来て、はっとするほど秋めいた風が吹いた。するとくだんの寡黙な男性が「こんな時刻が一番好きなんです」といった。

二人はJR奈良駅までいく。わたしは近鉄奈良駅でバスを降りる。駅のあたりはもう夜の灯りに彩られている。「それでは、ごめんください」といって見送った。

あれから20年たち、出会いの記憶もおぼろげになった。晩秋の透明な時間が流れる感覚は、私の中にいまもたしかに残っている。それでも、いったいあの人たちは本当に実在する人だったのだろうか、と疑わしく感じられる時がある。

夏休み―八国山の蝉

大学教師の夏休みは、言葉通りの「休み」ではない。まとめて自分の仕事ができる期間のことだ。今年は、3冊分の編著の企画が進行しているのでひときわ忙しい。その上この暑さである。もはや規則正しい生活で乗り切るしかないだろうと殊勝なことを考え、夕方に八国山の散歩をいれることにした。

今日、人影もまばらな尾根道を歩いていたら、左手首の外側に小型の蝉がペタリととまった。ちょっと驚いたが、振り払うのもためらわれて、腕をふらずにそのまま歩き続けることにした。細い前足をときどき右、左と動かすのでこそばゆい。

ひじをゆっくりまげて上からのぞきこむと、顔の周辺は綺麗な緑青色である。「いったいどういうつもりなんだい」と話しかけたが、はかばかしい反応がない。四角い顔の両端にある芥子粒ほどの黒い目玉からは表情がなにもよみとれない。

5分ほど歩いたろうか。蝉が飛び去って、全山が蝉しぐれになっていたことに初めて気がついた。

これをワイフに自慢してやろう。バード・ウォッチングをはじめてこのかた、鳥のことでは自慢のされっぱなしである。なにしろ彼女のいくところ、カワセミ、ルリビタキなど青い鳥がやたらに姿をみせる。京都御所の九条邸の庭、南禅寺の天授庵、宇治川など、およそ池や流れのあるところならどこでも、という感じである。

ある夏、ロンドンのキューガーデンの芝生でうたたねしているワイフの姿をみたら、知らぬ間にリスや小鳥が集まっている。これを目撃したときはさすがにわが目を疑った。

彼女がアッシジの聖フランチェスコならぬ“所沢のフランチェスカ”をひそかに自認するようになったのはそれからである。おかげで珍しい鳥が目の前にあらわれようものなら、その手柄をことごとく自分のものにしてしまう。こんな状態がもう20年ちかく続いている。

しかし、これからは手柄の独り占めをさせないつもりである。

実は〆切型人間でした

尾上明代さんのワークショップでみんなに驚かれたが、私は〆切型人間である。物心ついてからコツコツ型だったという記憶がない。当然のこと原稿の執筆はいつもギリギリ、筋金入りの〆切型である。

いくら楽天的な私でも、これでいいと思っているわけではない。息もたえだえで原稿を書き上げたときなど、寅さんのセリフではないが「いまはただ反省を日々と過ごしております」という気分になる。ワイフからは「締め切り間際に急病にでもなったらどうするつもり?」と脅される。私と正反対のタイプだ。

これまでにコツコツ型に転換する機会がいくらもあったが、一向に改善がみられない。原因のひとつは「締め切りが迫りテンションがあがったときの方が、アイディアが湧いて、結果的に良い原稿になる」という思い込みだ。これなどはほとんどへ理屈の類だろう。

というと、依頼原稿といういわば他力本願で研究内容が決まっているみたいに聞こえるが、そういうことではない。「そろそろこのテーマで書かなくちゃ」と思っているところに注文がくる、そんなタイミングが多いのだ。不思議な予定調和である。

改善がみられないもう一つの原因が、無意識の自己防衛だ。ICU高校時代、ことに30代後半からどんどん仕事が忙しくなった。本務だけでも十分に忙しいのに、複数の大学の非常勤講師、学会や研究会の仕事、講演など、たとえ作業計画をたてても到底できそうもない仕事量にまで膨らんだ。破綻する計画表をながめるよりテンションをあげて目の前のハードルをクリアする、そんなスタイルが定着した。その結果、忙しくなればなるほどますます〆切型の行動が助長されることになる。

このやり方が気質にもかなっている。陸上でいえば長距離走よりも短距離走タイプ、テニスのダブルスでいえば集中力を高めてチャンスに飛び出す前衛タイプである。

それでも、そろそろコツコツ型に変わる時期かなと思うときがある。集中力の低下を自覚するようになったのだ。集中力こそ〆切型の生命線である。これが低下しては同じスタイルが貫けない。野球投手が速球派から技巧派に転身するというあれだ。

私の出会ってきた教師の圧倒的多数がコツコツ型である。おそらく職業的類型といっていいだろう。それで、教師を目指す学生には折にふれて「4つのマネージメント」―目標、時間、作業量、こころのマネージメント―の方法を指南している。4つのマネージメントというのは、七転八倒の歩みから生まれた体験的仕事術のことだ。

仕事術が生まれる背景を省いて結果だけ伝授しているので、彼らが私を生来のコツコツ型人間だと誤解している可能性は大いにあるのだが。

さて、転身は可能だろうか。