月別アーカイブ: 7月 2013

尾上明代氏のドラマセラピー・ワークショップ

懇親会は日大通りの「たつみ」で

懇親会は日大通りの「たつみ」で

尾上明代先生(立命館大学大学院教授)に、ドラマセラピー・ワークショップの入門編をお願いした。通常のセラピーセッションは、8~10人の規模で、回数も20回近くやるらしい。そのさわりを1回2時間でというのだから、無茶なお願いである。

どんなアクティビティをやるかずいぶん迷ったということだが、16人の参加者はみな大満足だった。獲得研レクチャーシリーズ6「ドラマセラピー―その全身的発展ワークの体験」は大きく6つのパートに分かれている。最後にくる「心の障害物を乗り越えるドラマ」がとりわけ示唆的だった。心の中を可視化するアクティビティだ。

まず一つの目標を設定し、それが達成されたときの姿をイメージする。しかし、「自信のなさ」だったり「環境条件への不安」だったり、心のなかにはいくつも障害物がある。それを乗り越えるプロセスを演じてみる。この日でたいくつかのアイディアのなかで、メンバーの支持を得た目標が「私は女優になりたい」だった。

設定した役柄は、目標をいだく人、心の障害物(今回は6人)、夢を実現した当人(目標役)という構成である。目標役の前に一直線に立ちふさがる当人の心の障害物(内面の声)たち。この6人と一人ずつ対話し説得しながら目標役に近づいていく。

尾上先生も初海さん(事務局長)もICUの同窓生

尾上先生も初海さん(事務局長)もICUの同窓生

ファシリテーションの間合いが絶妙である。当人が対話につまると、ちょっと違う視点をアドバイスしたり、後ろを振り向かせて「それじゃ元にもどりますか」と初心を思い出させたり、目標役のひとを目の前に登場させてエールを送らせたり、と内面のドラマを即興的につくっていく。今回は、当人役をやった小松理津子さん(秋田明徳館高校)の熱意におされて、6人全員が道をあけ、最後は小松さんと目標役の杉山ますよさん(早稲田大学)が抱き合って喜んだ。

尾上さんはアメリカで3000時間のセラピー実習をし、日本人で最初にRDT(北米ドラマセラピー学会公認セラピスト)になった方だ。2001年の日本演劇学会のシンポジウムでご一緒して以来のお付き合いである。ただ、セラピーは専門家の領域だから、ちょっと敷居が高い印象が私にもあった。その印象が今回のワークショップでかなり変わった。

一般に教育関係者の発想の特徴は、向日性がつよいことにある。だから同じファシリテーションでも、その場で「やりたいこと」「やった方がいいこと」に比重がかかりやすい。一方、セラピストは「やってはいけないこと」にも敏感である。そのバランス感覚がとても新鮮に感じられる。場を安全に制御するために意を砕く、それは教育関係者がこれまで以上に配慮すべき点だろう。

尾上さんは、ドラマセラピーへの誘い『子どもの心が癒され成長するドラマセラピー―教師のための実践編』(戎光祥出版)を出し、セラピーと教育実践をつなぐ仕事もしている。獲得研とどこかでコラボできないかなあ、ワークショップを経験してそんなことを考え始めた。

壕(ガマ)と想像力―1985年の沖縄セミナー

夏がくると決まって思い出すのは、沖縄本島南部の糸数壕(アブチラガマ)に入ったときのことだ。1985年に、「沖縄戦と基地問題を考える 沖縄セミナー」(沖縄大学、高文研主催)で壕の中を案内してもらった。

糸数壕は、軍人・民間人が最大千人身を潜めた自然の洞窟である。総延長は200mをこす。なかでも地下建物があった大空洞のあたりは体育館ほどの大きさのドームになっていて、人声が遠く反響して戻ってくる。

糸数壕の南側の入り口をくぐり、足元や頭上を気にしながら、死体置き場、水汲み場、炊事場とたどる。内部は真っ暗だから、懐中電灯の明かりがたよりだ。沖縄戦の末期、壕の中は死体と排泄物のすさまじい臭いに包まれていたという。北の出口付近には、米軍の火炎放射器の炎をあびて変形したガラス瓶が散らばっている。

大空洞まで戻って、一斉に電灯を消してみた。当時の壕の暗さを実体験するのだという。スイッチを切ると、近くに立つ人のかすかな気配だけを残して全身がスーッと深い闇につつまれる。湿り気をふくんだ重い空気が肌にまとわりつき、やがて息苦しい感覚が襲ってくる。ほんの1、2分の短い時間だったはずだが、その暗闇体験が亡くなった人々への鎮魂の時間ともなり瞑想の時間ともなった。

90年代になって、沖縄修学旅行が飛躍的に増加し、壕の見学を取り入れるところも増えたと聞く。若者の体験として意味があるだけでなく、わたしは日本政治の枢要な地位にある人こそここを訪ね、暗闇の中で、戦争の実相というものに静かに想像力をはたらかせる時間を持ってほしいと思う。

「沖縄セミナー」は3日間のプログラムだった。初日が新崎盛暉氏(沖縄大学学長)と高良倉吉氏(現副知事)の基調講演、2日目が南部戦跡調査、3日目が米軍基地調査となっている。手元にある参加者リスト140名の2番目に名前があるところから、勇んで参加申込をしたことがわかる。

2日目に1号車のガイドをしてくれたのが沖縄県史料編集所の大城将保さん(沖縄県立博物館館長)である。離島をふくめて沖縄戦の聞き取り調査をしている。黒縁メガネの大城さんは40歳代半ば、サマージャケットにループタイ、麦わら帽子といういでたちで、テンポよく話す。そこはかとないユーモアが漂う語り口である。『沖縄戦―民衆の眼でとらえる「戦争」』(高文研)を上梓したばかりとあって、徹底して住民側の視点から最新の研究成果を話してくれる。心の重くなる戦跡めぐりでありながら、どこか救われる感じがあったのは、大城さんの語り口に負うところが大きい。

本島南部は、直径7㎞の地域に軍人3万人、住民13万人が袋のねずみとなった軍民混在の戦場である。戦後、この一帯でおびただしい遺骨が集められた。魂魄の塔(3万5000柱)などに、あわせて12万~13万人が祀られたという。

万華の塔(1万9800柱)の近くにある千人壕にも入った。こちらは糸数壕と違って大空間というものがない。その代わり、屈曲して狭い空洞がどこまでも続いているから、まるで腸の中をめぐるような圧迫感があって、とちゅうで足が前に進まなくなった。

以後の沖縄通いのきっかけになったのが「沖縄セミナー」ということになる。サトウキビ畑のなかを走る白い道、糸数壕の底に沈む深い闇、その強いコントラストが私の沖縄イメージの基調になっている。

2007年だったか、「キジムナー・フェスタ」(国際児童・青少年演劇フェスティバル おきなわ)の教育プログラムの打ち合わせで下山久さん(プロデューサー)の首里にあるオフィスを訪ねたとき、大城将保さんと22年ぶりに再会できた。下山さんの粋な計らいである。

大城さんの軽快な語り口は健在だった。嶋津与志のペンネームをもつ大城さんは、1フィート運動の長編記録映画「沖縄戦・未来への証言」(86年)、アニメ映画「かんからさんしん」(89年)、映画「GAMA 月桃の花」(96年)の脚本家で、劇作もやれば小説も書く。

ということは、歴史研究者でもあり文学者でもあるということだ。なるほど、現実の世界とフィクションの世界を往還する視点の豊かさと、持ち前のテンポの良い語り口とがあいまって、あの印象深いツアーになったのかと納得した。

その後もなんどか戦跡めぐりをしたが、やはり大城さんのガイド・ツアーの印象がいまも際立って残っている。

甘楽町と織田信雄

町屋通りのお休み処 明治時代の商家建築

町屋通りのお休み処 明治時代の商家建築 建物の前を滔滔と水が流れている

猛暑の合間をぬって、関越自動車道の富岡インターからほど近い群馬県・甘楽(かんら)町を訪ねた。清州会議で有名な織田信雄(おだのぶかつ 織田信長の次男 小幡織田藩の初代)とのかかわりから、この町のことがずっと気になっていたからだ。

天正18年(1590年)、33歳の信雄が秀吉によって秋田・八郎潟の近くに配流になった。わたしの生家から10キロちょっとのところだ。そして元和元年(1615年)、信雄58歳のとき、家康から大和国宇陀郡3万石と上野国甘楽郡2万石を与えられている。これが有為転変の人生がようやく静穏にいたる場面である。

以来、織田宗家8代が明和4年まで180年間小幡藩を統治し、織田家が出羽高畠藩に転封させられたあとは、幕末まで松平家4代の時代になる。

織田信雄は小幡藩の実質的経営を四男・信良に任せ、京都で余生をおくった。だから、本人の意向がどれくらい統治に反映しているのか不明である。ただ、池泉回遊式の庭園・楽山園、武家屋敷地区を網目状に走り藩士の家すべてに水を供給する水路など、織田家時代の遺構がいくつか残っている。

武家屋敷地区の景観の特徴となっている矢羽積の石垣もそうである。さして大きくない緑色片岩を丁寧に積んだものだ。身の丈にたりない高さの石垣がえんえんと続く。古い建物がほとんど残っていないかわりに、これで藩政時代の地割が分かる。

山田邸の石垣 御殿前通り側 中小路通りにも同じ長さの塀がある

山田邸の石垣 こちらは御殿前通り側の景観 中小路通り側(画面奥を左折した側)にもさらに長い塀が続いている

藩邸につながる大通り―御殿前通り、中小路通り―は道幅が7間ある。中小路通りで石垣にみとれていたら、年配の男性に声をかけられた。武家屋敷の一角に住まっている山田さんである。庭の手入れの途中で当方の姿をみかけたらしい。ご先祖が藩の勝手奉行だったそうで、屋敷内に「喰い違い郭(くるわ)」という屈曲した石垣の遺構をもっている方だ。

山田さんがいうには、明治になってから、このあたりの藩士の多くが帰農して養蚕農家になった。中小路通りの半分もごく最近まで畑として使っていたらしい。きっと困窮した家も多かったろう。代わって繁栄したのは町屋地区で、7間幅の短冊形の屋敷に大きな土蔵を構えた養蚕農家が何軒もつづく街並みがいまも残っている。

楽山園 南の築山からの眺め

楽山園 南の築山からの眺め

この小さな城下町最大の見どころは藩邸址に隣接する大名庭園・楽山園である。発掘調査をおえてから、復元に10年の歳月をかけ、昨年3月に公開をはじめた。もう5万人以上が訪れたというから、群馬県内では有名なプロジェクトに違いない。さすがに築山も四阿も植栽もいまできの雰囲気である。

それだけいうと、まるで余韻に欠ける庭だといっているように聞こえるが、決してそうではない。芝生の緑がめだつ広々した庭園には、スカッとつきぬけた明るさがあり、気分が晴れ晴れする。借景を隠す近代的な建物がなに一つ見えないからである。その贅沢さは得難いものだ。

このあたりでは、下校時の小中学生がだれにでも「こんにちは」と元気にあいさつする。それに出会う人がみな驚くほど親切である。町中には水路の水音が心地よく響いている。そんなこんなで、こころに温かいものを感じて帰途についた。

坂口真さんと「酒飯 増亭」

この日の広島は暑かった

この日の広島は暑かった

日本国際理解教育学会の研究大会が週末に広島経済大学であった。それで、久方ぶりにNHKテレビのプロデューサー坂口真さん(中国支社)とゆったりおしゃべりできた。

坂口さんとは、もう20年を超えるお付き合いになる。高校生が出演するディベート番組「青春トーク&トーク」(教育テレビで放送)の番組委員をしたときが最初である。坂口さんは入局したばかりの新人ディレクターだった。

坂口さんの撮影 ぐんぐん寄って撮る

坂口さんの撮影 ぐんぐん寄って撮る

1990年にはじまったこの番組は、やがて総合テレビで夏の特番がつくられるほど好評を博すようになり、90年代半ばのいわゆるディベート・ブームの火付け役のひとつになった。この前、大人になった高校生たちのリユニオンがあったらしい。いまでも交流が続いているのだ。このあたりに、坂口さんの番組づくりの姿勢がよくあらわれている。

今回は、JR横川駅に近い日本料理店で海の幸をご馳走になった。増田崇さんご夫婦の経営するお店「酒飯 増亭」は、10席ほどのカウンター席に小上がりというこじんまりした構えである。

手前がひろしま美術館 奥が広島城

宿から 手前がひろしま美術館 奥が広島城

旬菜料理の店とある通り、季節の素材に実にこまやかに手をかけている。瀬戸内の蛸も鯛も小鰯もどれもおいしかった。お酒から調味料にいたるまで、できるだけ仕入れ先に足を運んで、自分が惚れ込んだものをつかっているという。それでいて、ともすれば“こだわりの人”が発しがちな息苦しい雰囲気が一切ないから、実に居心地がよろしい。

聞けば、お二人はテレビも自動車も持たない暮らしぶりなのだという。ゆったりした接客はそういうことともつながっているのではないか。

ねばり強い番組づくりが身上の坂口さんと若いご夫婦の波長がきっと重なるのだろう。おかげで、わたしも気持ちよくお酒がすすんだ。

臥龍の松

南から東北方向にのびる幹

南から東北方向にのびる幹

生家の庭に、地面から斜めにのびる松の木がある。一抱えもある幹が、中空にむかってうねうねと伸びあがっていく姿は、まるで何かの生き物のようである。いったいどんな撓め方をしたのかだろうか。

これが臥龍の松といわれるものかと再認識したのは、「獲得研レクチャーシリーズ4」で、先輩の保立道久さん(東京大学史料編纂所教授)の講演を聴いてからである。この講演で、神が仏に帰依するかたちで本地垂迹説がうまれ、三位一体の自然神が「龍」というシンボルに形象化されて水神や疫病をくいつくす存在になっていく、という紹介があった。

枝先はさらにうねうねしている

枝先はさらにうねうねしている

園路がこの松の下を通っている。だから庭を散策するときは、まず奇妙な枝ぶりをみあげ、次に少し腰を折って幹の下をくぐるかたちになる。

もともとここは苔庭だったというが、それにしても、いまは松の幹の三分の一ほどが苔におおわれてしまっている。東庭にある古井戸を使わなくなり、水位が上がったせいだ。樹木の保存環境として決してのぞましいものではない。ただ、龍としての迫力はいっそうました感じがする。

古木の中の息づく生命力を感じる

古木の中に息づく生命力を感じる

昨年、龍の背にあたる部分の太い枝が一本枯れた。ところが、今回の帰省で、幹の真ん中あたりからポツンとひとつ新芽がでているのに気づいた。雨に濡れて、緑が一際鮮やかである。ゴツゴツした地面からいま生まれたという風情があって、どこか神秘的ですらある。舟越保武に『巨岩と花びら』というタイトルの画文集があるが、そんなコントラストの面白さを感じさせる。

臥龍の松に、こんな脇枝を発見するのははじめてである。この先どう変化するのか、少し様子をみようかと思っている。