月別アーカイブ: 6月 2013

有馬平吉編著『キリガイ』を読む

楽しいマンガやイラストもはいっている

楽しいマンガやイラストもはいっている

帯に「ICU高校の名物授業「キリスト教概論」、略して「キリガイ」。成績をつけない“丸腰”教師アリマンとの対話から飛び出した、高校生たちの期末試験名(迷)回答集」とある。

有馬平吉さんは、週1回ある1年生と2年生のキリガイを一人で担当している。授業は、愛、労働、偽善、罪、死などをテーマに対話型で行われる。平易な日常の言葉を使い、生徒にとって身近な素材を手がかりにしてテーマを探究するのが特徴である。

期末試験は記述式、複数の設問から生徒がひとつだけ選んで回答する。評定をつけないかわり、480名全員の回答にコメントをつけて返却する。この往復書簡のような大仕事をアリマンは30年以上続けている。

生徒の文章を抜粋したプリント「キリガイ名(迷)言集」の発行をはじめたのは、20年ほどまえのことになる。一人で読むのはもったいないと有馬さんが考えたのだ。生徒たちはもちろん私もすぐ愛読者のひとりになった。

本書には、2年生の書いた文章が収録されている。「高校生(それも友だち)のリアルな問いかけや意見は、書店に並べられている言葉よりもずっと色々な事を私に考えさせてくれるし納得させてくれる」と生徒自身が書く通り、迷いの真っただ中にある若者の率直な表現が全編にあふれている。

編著者の有馬さんと、人生で2度出会っている。最初は1970年、ICUに入学してグリークラブにはいったときだ。グリークラブでテナーを担当し、器楽部ではベースを演奏する、こんな音楽好きは当時でも珍しかった。翌年、1年先輩の有馬さんがグリーの部長、わたしが指揮者という役回りになった。

ところが、お互いにリーダーとしてはいささか緻密さに欠けるところがある。そろって合宿の集合時間に遅刻した。おしゃべりに夢中で、降車駅の相模湖を通り過ぎてしまったのだ。携帯電話などない時代である。おかげでお姉さん部員たちにこっぴどく叱られるはめになった。

2度目の出会いは1980年、錦城高校から創立3年目のICU高校に移ったときだ。そこにキリガイを担当する有馬さんがいた。それからというもの『帰国生のいる教室』(NHKブックス)の研究仲間だったり、学校祭で穂苅美奈子さん(体育科:アーチェリーのオリンピック選手)と3人でPPMの「パフ」や赤い鳥の「竹田の子守唄」を演奏するバンド仲間だったりと、さまざまに交流が続いた。

有馬さんは、ICU高校のクリスチャニティーを体現する人である。ただ、点数をつけない授業、「伝統」にも「権威」にも寄りかからない授業を長年にわたってなりたたせるのは、並大抵のことではない。私はそうした新しい授業に挑戦し続ける有馬さんへの信頼が、生徒の率直な文章を生んだと考えている。

巻末にある「キリガイ授業の基本方針」というわずか18ページの文章に、有馬さんの教育哲学が凝縮されている。わけても印象的なのは「生徒の前で語っていることを自ら本当に実感しているのかどうか、・・・そして何よりもこれらすべてを語りかけようとする大本であるところの私自身の信仰そのものは、本当に確かなのかどうかを、常に自己吟味しなければならない」と語っている箇所である。30年以上にわたって、教える側の主体性を問い直しつつ一筋の道を歩いてきた、そのことに粛然とする。

本書の存在は、生徒の自主性を尊重するICU高校の教育実践のひとつの到達点を示すものだろう。昨今、道徳を「教科」化し評定をつけるという方向が取沙汰されているが、本書はそうした動向に対するアンチテーゼの意味ももっているのではないか。

この本の登場は、私にとって有馬さんとの3度目の出会いを意味している(新教出版社 2012年)

タイムカプセル

スーパーこまち さすがに乗り心地がいい

スーパーこまち さすがに乗り心地がいい

土蔵の屋根の葺き替え工事をはじめるので、週末に秋田に帰った。享保年間の棟札がある米蔵だから、270年ほどはたっているだろう。いまや満身創痍という言葉がぴったりの外観だが、飢饉のおりには、貯蔵された雑穀で、近隣の人々の露命をつないだという言い伝えがある。

秋田藩は、江戸時代の270年間に40回も凶作にみまわれている。幕末にあった天明の飢饉は4年間、天保の飢饉は6年間続いた。領内各地に藩が「施行小屋」をつくって救済をはかったものの、たくさんの餓死者がでている。

飢饉の難儀について、大叔母たちからよく聞かされたが、『町史』(1986年)の年表にも、そうした家族の伝承を裏付ける記述があらわれている。

日本海中部地震(1983年5月26日)で、この土蔵も被災した。津波による死者が100名以上、家屋の全半壊3000戸をこすというすさまじい地震で、発生当初、報道機関が「秋田沖地震」と呼んだ通り、とりわけ秋田県内の被害が甚大だった。

北側の壁 パネルで補修してある

北側の壁 パネルで補修してある

母屋にいた母親が「もうダメかと思った」というほどの激しい揺れだったらしい。突然、北側の白壁が「どすんっ」という鈍い音と砂煙をともなって大崩落する。しかし、運よく倒壊は免れた。地震で土蔵が全面倒壊したという話を聞かないところをみると、よほど頑丈なつくりなのだろう。今回、屋根をはがしてみたら、天井裏全体も厚い土壁で覆われていることがわかった。

建物の大きさは4間と2間半ほどではないか、と大工さんがいう。子どものころはずいぶん大きく感じたが、いまみるとさほどの大きさではない。鉄格子のついた明かり窓が東側にひとつあるきりだから、中二階のある内部の吹き抜け空間は、昼でも真っ暗である。

昔は江戸時代の肝煎文書も収蔵されていた。米蔵と文庫蔵を兼ねていたからだ。私は文書より和綴本の方に興味があり、ときどき南総里見八犬伝などを文庫から引っ張り出して、窓際の明かりで眺めたりした。こうした多機能空間になったのは、幾棟かあった建物がいつのころか統合されたからだと聞いたことがある。

いまは全ての役割を終えてしまった建物だが、ある時期まで、この地域のタイムカプセルだったといえるだろう。

以前から、チョウナ仕上げの太い梁がつくりだす空間の迫力を感じ取れる活用法を考えているのだが、まだ成案はない。父親が廃棄せずにとっておいた農具の展示スペースもいいかな、と思う。昭和期の農業技術史に触れられるからだ。

ただし、こればかりはリタイア後の仕事になりそうである。

沖縄大学と土田武信先生

『国際感覚ってなんだろう』がときどき入試問題に使われる。ことしも岡山県の公立高校の「国語」で使われたようだ。2003年に沖縄大学の推薦入試の課題図書になったときは、意想外の展開になった。たまたま試験監督をしていた土田武信先生(民法学)が、この文章を読んで大学での講演を依頼してきたのだ。ICU高校の肩書でした最後の講演である。

沖縄大学地域研究所・大学教育研究班が主催する講演会ということだが、FD活動の一環という位置づけらしい。大学教員が高校教師の授業研究に学ぶという姿勢に、沖縄大学の柔軟性がよく表れている。土田さんの提案したタイトルは、「いま、改めて問う 知識注入型授業から獲得型授業へ―「学力低下」問題と「総合学習」の課題―」。かなり力が入っている。ちょうど『世界』に「総合学習に展望はあるか」という論文を書いたあとだったから、それも反映したタイトルになっている。

どうせなら市民にも公開しようという話になり、地元ケーブルテレビのクルーまで陣取って、ちょっと大がかりな催しになった。定年間際の宇井純先生が聴きにきて、賛同のコメントをしてくれたり、新崎盛暉先生(元学長)のご子息と私の教え子が、大学で同じ自転車ツーリング・クラブに入っているのを知ったりと、いろんな出会いがあった。

土田さんは、淡々とした語り口の人だが、すこぶるつきの行動の人でもある。なにしろ1月に私の存在を知って、もう2月には講演会が実現していたのだ。ジュゴンネットワーク沖縄の事務局長をしていて、普天間飛行場の辺野古移転の反対運動に熱心にかかわっている。それで、講演会のあと、住民が座り込みをするテントにも案内してくれた。

辺野古の海を見渡す高台の公園から、開けけた平地にポツンとたつテントがみえる。片足をちょっと引きずるようにして歩く土田さんのあとをついていくと、ニュース映像で何度も目にした場所についた。なかで数人の男女が談笑している。やあやあ、という感じであいさつをすませると、早速メンバーを紹介してくれた。

ちょうど基地の測量問題が緊迫していた時期のことである。海に潜って測量を阻止しようとする側も、政府側にたってそれを排除しようとするダイバーもどちらも地元の住民なのだという。反対派が海底のポイントにしがみついていると、もみあいをするダイバーのなかに、水中で両手を合わせて、すまないと合図を送ってくるものもいたという。陽光を穏やかに照り返す海の底に、本土の政治が沖縄の人々に強いている理不尽な構図がみえてくる。

2005年に、あかり座沖縄公演をやったとき、会場校を沖縄大学にひきうけてもらった。仲立ちしてくれたのが、土田さんで、このときも沖縄尚学高校の先生たちなど、さまざまな出会いを演出してもらった。その土田さんが2010年に亡くなり、私は沖縄に通じる大きなドアを失ってしまった。

研究大会終了

きのう異文化間教育学会第34回大会がぶじに終わった。まだ確定ではないが、350名近いエントリーがあったようだ。

この研究大会は、獲得研にとっても上半期最大のプロジェクトである。和田俊彦さん(大会準備委員会事務局長)、初海茂さん(獲得研事務局長)を中心とする企画・運営チーム、プレセミナー担当チーム、懇親会担当チーム、公開シンポジウム担当チームが、それぞれ同時進行で準備を進めてきた。

横田先生、渡辺貴裕先生の姿がみえないが・・・

横田雅弘先生、渡辺貴裕先生の姿がみえないが・・・

早稲田大学の山西先生から、「今回の大会は渡部先生のカラー全開ですね」と声をかけられたが、プログラムをみると確かにそうなっている。これから本格的に振り返りをするが、研究上の成果は予想以上だったと感じている。それは例えばこんなことだ。

昨日の公開シンポジウム「学びの身体を問い直す―教育コミュニケーションと演劇的知の視点から」に登壇した宮崎充治さん(桐朋小学校)、小松理津子さん(秋田明徳館高校)、藤井洋武さん(日本大学)の実践報告がどれも素晴らしかった。聴いていると、学習者の姿が目の前に浮かんできて、メッセージが心の深いところにスーッととどくのだ。三者三様の語り口だから、報告者の個性もはっきり感じとれる。

ここで研究成果というのは、報告の到達点のことだけではない。三人の発表が、定例会などの討議を通じてたった数か月で劇的に変貌する、そのプロセスを共有できたことが何より大きい。獲得研のミッションのひとつは、新しい実践研究のスタイルの創造にある。それを考える素材が、公開シンポジウム・チームの変貌ぶりに豊かに含まれているのだ。

反省会の前にみんなでハイタッチ

反省会の前にみんなでハイタッチした

ともあれ大きなトラブルもなく、来年の同志社女子大学での大会にバトンを引き継ぐことになった。学会の御意見番・小島勝先生(元学会理事長 龍谷大学)が「良かったあ」という感想を残してキャンパスをさる姿に、大会の様子が象徴されている。

横田雅弘理事長をはじめとする学会事務局の支えのもと、教育学科研究室・学生/院生グループそして獲得研のみごとなコラボで、流れるように仕事が進んだ。感謝のほかない。わたしは会場をウロウロ歩きまわっていただけである。面目ない。

まあ、出番がなかったということは、うまく進行していた証拠だろう、と自分をなぐさめている。

 

数字の「三」

きょう日本大学第一中学・高等学校で、教育実習生の研究授業を観た。文理学部から8名が実習生としてお世話になっている。校舎は両国駅のそばで、江戸東京博物館の敷地をぬけたところにある。

参観したのは、中学1年の国語で吉橋通夫の小説「さんちき」の授業である。下町の雰囲気がある学校ですよ、と教頭先生が言う通り、なんとも活気のある生徒たちだから、その勢いをもらって実習生も生き生きと授業している。

小説の舞台は、幕末の京都。尊皇派、佐幕派が血なまぐさい争闘を繰り広げているころの話だ。祇園祭の山鉾をつくる車大工の弟子・三吉が主人公である。三吉がはじめてつくった車の「矢」に、こっそり名前を彫るのだが、間違って「さんちき」としてしまう。これがタイトルの由来である。

授業をきいているうちに、そうだ、うちの先祖にもたしか「三吉」がいたなあ、一吉、二吉でなく、なんで三吉という名前なんだろう、とあらぬ方に連想がはたらいて止まらなくなった。

家に帰って過去帳をみたら、先祖の三吉は、天保8年(1837年)に亡くなっている。大塩平八郎の乱がおこった年だ。過去帳に記載のある三吉はこの人だけだが、三十郎と三之丞がそれぞれ4人いるところをみると、江戸時代の中期頃から当主の名前にはすべて「三」がついているようだ。これが明治以降になると、祖父・純一郎のように、名前のつけかたががらりと変わってしまうところが面白い。

子どもの頃、不思議に感じていたことが二つある。ひとつは、屋号の「かぶら」の由来で、これはいまもって謎である。もう一つは、椀や膳などの什器から、鍬や脱穀機などの農具にいたるまで、わが家の道具類にすべて「山印の下に三」の文様が描かれていたことで、これは母親から先祖が代々「三」のつく名前を名乗っていたからだと、聞いた。

では「三」という数字が意味するものはなにか。白川静『常用字解』をみたら、こうあった。「〔説文〕に一は天の数、二は地の数、三において天地人の道が備わるとする。三は天地人の数として聖数とされ、その名数(同類のすぐれたものを、三・五・七などの数をつけてまとめて呼ぶ言い方)の数は千数百にもなるという」。そして用例として、三金、三光、三代、三世代、三筆があげてある。

なるほど、これが手がかりの一つかと思う。ただ、たったこれだけのことを調べてみようともしなかった自分の迂闊さに、自分で驚いた。教育委員会が整理した「渡部周一家文書」を繙くほどの余裕はないが、それでもこれを機会に家の歴史を少しあたってみようか、と考え始めている。

 

茂山千作師と千之丞師

茂山千作さん(大蔵流狂言師 人間国宝)が5月23日に、93歳で亡くなった。付き添っていた恵子夫人が眠っている間に、自室で息を引き取ったという。大往生である。

野村万作さんの追悼談話「狂言を芸術にした主役」(朝日新聞・5月25日付)が秀逸だった。「舞を拝見すると(千作さんの)体の線の強さが分かります。新劇のように体をリラックスさせて演じるのではなく、ピシッと緊張した体をとてもよく動かすことができた。美しい「型」はそういう体がつくるもの。そうした基礎の上に濃い個性と愛嬌があふれ、誰にもまねのできない芸になっていました」と語っている。

このブログで、2002年に京都で千作さんと対談したときのことを書いた。その場で小舞の「京わらんべ」を見せてもらいながら、千作さんの身体性について感じたことが、実はこういうことだったのか、と談話を読んで納得した。

続けて万作さんは、狂言が能に付属するものではないという主張を、社会にむかってどう示すかを考えたプランナーが弟の千之丞さんで、その企画にのって、狂言の面白さを広く認めさせたのが千作さんだ、と述べている。

千之丞さん抜きで千作さんは語れない。千作さんの回顧談を読むと、二人で賀茂川の流れをはさんでセリフの稽古をしたこと、宿舎で蚤にくわれるような苦労をしながら学校公演を続けたことなど、芸道の二人三脚ぶりがしばしば登場する。

千之丞さんは理知的な前衛性を体現していた。沖縄市コリンザでみた現代劇の一人芝居、所沢市マーキーホールでみたオーケストラとの協演など、晩年にいたるまで、印象深い舞台がいくつもある。

千作さんは、朗らかに突き抜けた明るい芸風を築いた。晩年の国立能楽堂の舞台では、歩行もままならない様子だったが、存在感の大きさは健在で、観る者に微塵も暗さを感じさせなかった。この二人の個性があわさって、狂言の奥深い魅力を形成している。

ことしの正月に、NHKテレビで、茂山千五郎家の正月行事が紹介された。千五郎家の雑煮には、お椀がいっぱいになるほど大きな丸餅が入る。丸餅にかぶりつく家族のなかに千作さんの姿があり、それが私にとっては、千作さんをみかけた最後だった。