月別アーカイブ: 4月 2013

「エデュケーション・ナウ」の再会

研究室で 001

昨日、2月17日の記事「エデュケーション・ナウの偶然」に書いた芳岡(水谷)倫子さんと富田麻理さんが、坂本雄飛くん(読売新聞社)と一緒に訪ねてきてくれた。こうして4人が揃うのは25年ぶりらしい。ICU高校3階の社会科研究室で、窓際のソファーに陣取り、教育を熱く論じあったメンバーである。

94歳の武田清子先生が、60歳を超えたわたしを今でも「淳くん」と呼ぶ。先生のなかには、きっと22歳のわたしがいるにちがいない。

そう思っていたら、わたしにも同じことが起こった。あった瞬間から「雄飛くんはどうしていたの?」などと呼びかけているところをみると、25年のときが溶解して、18歳の彼らと35歳のわたしにもどっているらしい。

ただ、時間の溶解は不思議なことではない。1987年の文化祭で政経演習の3年生たちと取り組んだ「緑町中学体罰模擬裁判」は、わたしの演劇的プレゼンテーションのいわば原点で、今日まで、何度も繰り返し思い起こしてきたものだからだ。あの年から今日まで、わたしの時間はまっすぐにつながっている。

「あなたたちが僕の人生を変えたんだからね」といったら、その途端「それはお互い様ですよ」と返ってきた。芳岡さんには、J.ニーランズさんとのシンポジウムの通訳など、いままでずっと助けてもらっている。富田さんと坂本くんは、後年、お互いの勤務先の福岡で再会し結婚、2児をもうけた。

今日、送ってくれた写真をみたら、3人は立派に落ち着いたオトナで、わたしの風貌は確実に年数分の変化をみせている。しかし、これからもずっと雄飛くんだろうなあ、と感じている。

天城勲氏と国際理解教育

1993年の「日本国際理解教育学会・第3回研究発表大会」でディベート指導について報告したとき、国連大学の会議室の後ろに、腕組みしてじっと耳を傾ける小柄な男性がいるのに気がついた。それが天城勲氏(故人)だった。

77歳の学会会長は、国際派として知られる人で、戦後を代表する元文部事務次官である。天城さんが教育政策の形成にどうかかわったかについての検証は、政策研究大学院大学「天城勲 オーラルヒストリー」(上下巻、A4判534ページ、2002年)に詳しいので、ここでは触れない。

翌々年、第1回の公選理事に選ばれてから言葉をかわすことが多くなった。スーツ姿の姿勢がよく、ひとり徒歩で会場にあらわれる。座敷にあがるときは丁寧に靴ひもをほどく。短く鋭いコメントを連発する様子は、徹底したリアリストの風貌である。

会議が長引きふっと居眠り状態に入るときがあっても、目覚めのコメントが急所をついていて、なぜだか「スターウォーズ」の賢人・ヨーダの姿がうかんでくる。

最初は遠い存在だったが、だれとでも分け隔てなく接していたから、若い世代へのメッセージを聞きに文部省の顧問室をたずねた。96年の夏のことで、多田孝志さん、岡田真樹子さんも一緒である。気楽なおしゃべりのつもりだったが、7時間のロングインタビューになった。

話のスケールの大きさにまず仰天した。大きな構図のなかで具体的なエピソードが泉のように湧いてくるから、聴いているこちらの視野が開ける感じがある。歴史を好み、歴史の教科書を机上においているとも聞いた。

リアリストと理想主義者、そのバランスも面白く感じた。天城さんの言葉で少しだけ再現してみよう。

地球上の60億人がひとつになるのは容易でない。仮のものでも仕切りが必要で、それが「国」である。国民国家というものはもともと理念型であって、そのフィクション性を自覚したうえで向き合う必要がある。

国の教育は「国民教育」のかたちをとるものだが、現実世界はナショナルとインターナショナルがダイナミックにせめぎ合う世界である。その意味で、国際理解教育は教育の本質にかかわっている。たしかに国際社会のアクターの多様化が進んでいる。ただ、その主役は依然として主権国家=国民国家なのだから、「国」の研究が軽視されてはいけない。

また、現実世界のリアルな認識は必要だが、かといって理想論の軽視は問題である。自然観の問題も含めて、<共生>の思想を再構成し発信していくことがこれからの課題だろう。

ざっとこんな具合である。「国」の問題は、天城さんの生涯のテーマだった。20代の内務官僚として朝鮮半島に赴任し、敗戦と同時に邦人が砂のようにバラバラになっていく体験をしたという話を、2度聞いたことがある。このときの体験が、官僚・天城勲の原点ではないかと思っている。

2000年には、85歳の天城さんが自ら筆をとって、特定課題研究への提起「国際理解教育の基本概念としての「国」を問う」(学会紀要 第6号)を寄稿している。

私が研究委員長になった2001年からの6年間は、特定課題研究の重心を国際理解教育の理論構築にシフトし、「国」の問題を正面から取り上げることをしなかった。

ただ6年後に、ナショナル・アイデンティティ教育の相対化装置としての役割が国際理解教育の存在意義のひとつである、と定義した。角度は違うが、研究の着地点は天城さんとそんなに離れていない、と感じている。

私学の国際教育研修会(2)

国際教育研修会の本 2 006

研修会から生まれた2冊目の本が、2007年刊行の『地球時代の表現者―狂言、朗読、演劇、詩』(小林和夫編 銀の鈴社)である。直近に行われた7本の講演のうちの4本が収録されている。

メンバーは、茂山千作、山田誠浩、平田オリザ、長田弘の各氏。文字通り各界を代表する講演者が、表現やコミュニケーションのあり方を、多様な視角から立体的に考える手がかりを提供してくれる。

わたしは序章「私立学校の先進性と国際教育」を書いた。ここでいう私学の先進性は、たんに公立学校に先駆けて国際教育のプログラムを導入するというような意味ではない。長いスパンで教育の行く末を考えたり、国際的動向を分析しながら学校教育のあり方を広い視野から相対化したりすることまでを含んでいる。

また、既存の環境に働きかけて、その方向性を変えるべく、永続的に努力を重ねることでもある。そう定義するのは、専門委員として研修会をリードした小林和夫氏と、平野吉三氏(啓明学園理事長)のリーダーシップにじかに触れたからである。

専門委員長になってからの小林さんは、中村学園百年の伝統に清新の気をおくる様々な事業に踏み出した。その一つが中村高校国際科の設置である。2年生の全員に一年間の海外留学を経験させるプログラムが特徴で、たっぷり異文化体験をつんで帰国したたくさんの生徒が、自らの体験を反芻し、次の目標を定めて大学に進学している。

平野さんは、類まれな行動力を持つ経営者である。自らが発表者の一人になって「旧東側諸国(スロバキアと中国)との姉妹校交流」という実践報告を行うかと思えば、飛行機の直行便が就航したばかりのモンゴルに渡り、現地校との交流の口火を切ったりもする。「難民の子どもたちを学校に受け入れることなしに、日本の教育の国際化はない」というのが長いあいだの信念で、その実現にむけた努力をもつづけている。

柔軟な発想をもつこうしたリーダーの存在が、闊達なディスカッションの基盤になる。わたしが長く委員を続けられた理由の一つは、専門委員会のそうしたリベラルな雰囲気に負うところが大きい。

研修会は、30年の歴史を刻んでその幕を閉じ、国際教育はいまや多様化の一途をたどっている。わたしはその現状を、あらゆる現代的課題をひきつけて大きく渦をまく「磁場」になぞらえた。残された2冊の講演集は、このような時代の証言としての意味をもっている。

私学の国際教育研修会(1)

1989年に「全国私立中学高等学校国際教育研修会」(主催:私学研修福祉会、私学教育研究所)の指導講師になった。研修会は、年1回、東京、札幌、大阪、京都、広島などを会場に、2日間の会期で開かれる。

研修会の創設メンバーである藤沢皖さんが推薦してくれた仕事だ。それから19年間、専門委員・指導講師を続け、研修会そのものが幕引きした2008年にようやく役割を終えた。こんなに長く続けられたのは、運営スタッフの熱意に励まされたからである。

国際教育研修会の本 1 001

プログラムの柱は、参加校による実践報告と外部講師の基調講演である。委員会の業績として、小林和夫先生(中村中学・高等学校理事長)編纂の講演集が2冊刊行されている。1冊は、2000年にでた『地球時代とこころの国際化―21世紀への提言』(グローバルメディア)で、イーデス・ハンソン、萱野茂、佐伯快勝、堀尾輝久氏など、多士済々の講演8本が収録されている。

わたしは、序章「未来と希望と―私学の国際教育とこころの国際化」を書いた。いま読み返してみると、90年代の国際教育が上げ潮の熱気をはらんでいたことがわかる。

90年代は、私立高校が国際教育を牽引していた時代である。海外研修、国際交流、帰国生の受入れ、国際ボランティア、国際科・国際コースの設置など、どの分野にも私学が率先して取り組んでいたが、国際教育研修会は、そうした最先端の情報が行き交うアゴラ(広場)の役割を果たしていた。

専門委員は、講演者の選定にいつもアンテナをはっている。『のびやかにかたる新島襄と明治の書生』など、新島襄の研究者として知られる伊藤彌彦先生(同志社大学法学部教授)には、こんな経緯で講演をたのんだ。

たまたま相国寺をめざして烏丸通りを北にあがっていたら、今出川の交差点で旧知の伊藤さんにバッタリあった。自転車で大学の正門をでてきた伊藤さんは、どうも昼ごはんに向かうところだったらしい。1998年の京都研修会の前年のことだ。

交差点で立ち話をするうち、若き日の新島をテーマにする講演とキャンパス・ツアーをセットで実施するアイディアが浮かんできた。同志社大学の今出川キャンパスは、重要文化財の建物がいくつも並んでいて、さながら学校建築の博物館の趣がある。最高のガイドがつく贅沢なプログラムとあって、参加者の先生たちから好評を博したことは言うまでもない。

ちなみに、渡部淳という私の名前は、実は渡部襄となるはずだった。新島襄にちなんで、祖父の純一郎が選んだ名前である。ただ、襄という文字を役場が受け付けてくれず、仕切り直した結果、淳になっている。

襄と淳ではずいぶん印象が違う。もし襄になっていたら、そのぶん人生もなにがしか変わっていたかもしれない、と思うことがある。

ロイヤル・オペラ・ハウス

おなじロンドンの劇場でも、スタッフの対応の丁寧さにおいてロイヤル・オペラ・ハウスが群を抜いている。ここは、公演のないときでも自由に出入りできるオペラとバレエのための劇場である。

コヴェント・ガーデン 広場側の入り口

コヴェント・ガーデンの広場側入口

何年か前のことだが、近くにあったはずの演劇博物館がどうしても見つからない。それで、受付の若い男性にきいたら「恥ずかしいことですが、最近、資金不足で廃館しました」といってから「展示品の一部がビクトリア&アルバート美術館に引き取られたそうです」と教えてくれた。博物館がなくなったことへの落胆より、恥ずかしながらなどという表現が自然にでてくることの方にまず驚いた。

開演の前に

開演の前に

今回、朝の9時半にロイヤル・バレエの当日券を買いにいったら、もう20人ほどが建物の前で列を作っていた。10時開門。案内係の中年男性がカウンターのそばまで誘導し、一人ひとりに声をかける。そのエレガントな対応で、当日券が50枚ばかりあることや残っているチケットの種類などについて、カウンターに行く前に知ることができた。

公演は、「アポロ」など三演目である。同じプログラムでの上演は3回だけだから、よほど日程に恵まれないと短期旅行者が観るのは難しい。それでも、客席に日本人の姿がめだつのはブームの影響だろうか。

昨年夏のアフリカ音楽ワークショップ

昨年夏のアフリカ音楽ワークショップ

オペラ・ハウスの裏側がコヴェント・ガーデンの広場である。広場の真ん中にあるレンガ造りの建物は昔の青果市場でミュージカル『マイ・フェア・レディ』の舞台だ。もともと庶民がはたらく空間だったわけだが、いまでもこの周辺はお祭りのような喧騒につつまれている。

大道芸人が同時多発的にパフォーマンスを披露するので、あちこちに人だかりができるし、吹き抜けになった建物の地下広場でも、若い演奏家や歌手が入れ代わり立ち代わり音楽をかなでているからだ。雑多なものの混交する空間がコヴェント・ガーデンである。

ドームの下が大きなレストランとバーになっている

ドームの下が大きなレストランとバー

オペラ・ハウスのバレエ公演が、特定の文法にしたがって極限まで鍛えられた身体をもつダンサーの動きを鑑賞するためのシステムだとすれば、そこは、観客のふるまいや服装まで含めて、システムを支えている身体性が露出する空間でもある。劇場で働くひとたちの応対ももちろんそれとつながっている。

だから、この一帯にただよっているは、オペラ・ハウス内の静けさと広場の喧騒とのコントラストだけでなく、立ち居ふるまいや身体性のコントラストでもある。わたしはその振幅の大きさをいつも面白く感じている。

古都の桜と結婚スピーチ

獲得研の渡邉貴裕さん(帝塚山大学)の結婚式が、3月30日に、三十三間堂のとなりのハイアット・リージェンシー・ホテルであった。お相手の登紀さん(中国文学)は、高校の同級生でおなじ京大大学院の出身。なんと日大の教員である。

乾杯がすむと披露宴会場のカーテンがサーッとひらかれ、ベランダ越しにみごとな一本桜が姿を現した。満開のしだれ桜。ことしの京都は、開花が10日ほどはやいそうで、巧まざる演出の妙である。

木屋町三条を下ったあたりの桜

木屋町三条を下ったあたりの桜

宴のあと、疎水にそった木屋町通りや賀茂川河畔など、同席した方々おすすめスポットを訪ねた。とりわけ賀茂川あたりは、桃、レンギョウ、柳の新芽の色が加わって、下流から上流まで、夢のように美しい。大きな株仕立てのユキヤナギも、あちこちで存在感を示している。

賀茂川 四条大橋と五条大橋のあいだ

賀茂川 四条大橋と五条大橋のあいだ

指導教授の田中耕治先生(教育方法学)の懇切なスピーチで、貴裕さんの論客ぶりが、学生時代からのものとわかった。仲間の多くが「あなたの意見の前提はなにか?」という問いで震撼させられたらしいが、それを田中先生にまでしたというから驚く。

若い小鷺が間近でエサをとっている

若い小鷺が間近でエサをとっている

田中・渡邉論争のポイントは、教える側・学ぶ側のどちらに研究の立脚点をおくかに発する、と総括しておられたが、ここに対等な研究者として若い院生を遇するゆったりした指導の姿勢が表れている。

テーブルで「先生、ちゃんと笑いがとれてましたよ」と弟子たちの評価が入るあたりにも、方法学研究室の雰囲気の温かさがにじんでいて、「ああ、こういう学問風土で育ったのか」と納得した。

その貴裕さんが、登紀さんには言い負かされるらしい。良いことである。それで私は、これからも負け続けて良き敗者になってください、とスピーチした。

京都南座-花道から奈落まで

花道の板が意外にしなる

花道の板が意外にしなる

阿国かぶき発祥410年と銘打つ「南座春の特別舞台体験」が、4月16日まで行われている。お花見シーズンとあって、劇場の前はラッシュアワー並みの人出だが、建物にはいると意外なほど静かだ。

予約券をもって客席集合。ここでスリッパにはきかえる。花道をとおって舞台にあがり、もういちど花道から客席に戻る、それだけのプログラムだから、時間にすればほんの20分ほどだろう。しかし、これが滅法おもしろい。

3階席はロンドンの劇場より観やすい

3階席はロンドンの劇場よりも観やすい

舞台の真ん中にきて客席を振り返ると、三階席の奥までパッと視野が開ける。これが歌舞伎役者の側の視界ということになる。千席ほどあるらしいが、これなら居眠りしている客の様子だって手にとるようにわかるだろう。それくらい見晴らしがいい。

客席からみると芝居の一場面のようだ

客席からみると群集劇の一場面のようだ

盆(ボン)にのって回り舞台を体験したあと、50人の客が二手に分かれ、迫り(セリ)の上がり下がりを体験する。高い方は2メートル近く昇る。2階席にいる見学者の顔がぐんぐん近づきちょうど正面あたりまでくる。奈落の側では、荒い鉄の柱組やその奥の雑多につまれた道具、照明器具などが見える。

ずいぶん高低差がある

ずいぶん高低差がある

わたしのバックステージ・ツアー体験のはじまりは、ウィーンのオペラ座である。もう35年ほど前のことだ。建物の立派さもけた違いだが、ガランとした舞台にたって、その奥行きの深さに度肝を抜かれた。

その日、フォルクスオーパーに「メリー・ウィドウ」を観にいき、10シリング(170円)の立見席で、若い日本人女性と知り合った。音楽大学にピアノ留学しているひとだ。翌日、オペラ座のまえで待ち合わせ、野外カフェやら博物館やらとお気に入りの場所を案内してくれた。まるでロマンティック小説みたいな展開だが、これは余談。

南座の舞台はもちろんそんなに広くない。わたしが注意をひかれたのは、床板そのものだ。長年つかいこまれた木曾のヒノキ材は、表面が痩せ、いたるところに凹凸がある。装置の金具もあちこちにみえる。こんなところでトンボを切ったりかけまわったりするのかと、おもわずスリッパをぬいで、ザラザラする感触を味わってみた。

最後が「チョンパ」体験である。緞帳をおろしたまま、舞台も客席も暗転させる。真っ暗闇のなかで、静かに幕が上がり、チョンチョンという澄んだ柝(キ)の音を合図に、照明がいっせいにパッとつく。目の前に客席をみわたす例の景色が、一瞬で出現する趣向。出をまつ役者の気分そのままの世界だ。

こんな演出されたら、どうしたってまた歌舞伎が観たくなるじゃないか。