月別アーカイブ: 3月 2013

10年目の桜

ずいぶん枝が伸びたようだ

ずいぶん枝が伸びたようだ

日大に移ってから、丸10年が経とうとしている。昨日3月27日は終日、獲得研の運営委員会だった。研究室の外は満開の桜。高校生プレゼンフェスタの振り返り、定例会のプログラムのつめ、異文化間教育学会第34回研究大会の運営方針など、いつもながら議題が盛りだくさんである。

ちょうど10年前の同じ日に、青山のフロラシオンで米国理解教育研究会(あかり座)の顔合わせをやった。初対面のメンバーにもかかわらず議論沸騰、よっぴいて語り続け、アメリカの光と影をくっきり描きだす教材をつくるという方向が固まった。

それから3年。あかり座チームは、取材でアメリカを横断し、つくった教材『中高生のためのアメリカ理解入門』(明石書店)の普及で日本を縦断するという具合に、文字通り旅する教師の集団になった。

いまの獲得型教育研究会(獲得研)は、あかり座を母胎にはじめたものだ。発足は2006年4月4日。それ以来、獲得研のメンバーも、旅を続けている。教育方法をめぐる冒険の旅である。

書斎から見る八国山の山桜

書斎から見る八国山の山桜

この旅に二つの意味がある。一つは、『学びを変えるドラマの手法』『学びへのウォーミングアップ 70の技法』(旬報社)などアクティビティ普及の旅、もう一つは、ドラマ技法を使ってリアルな世界とフィクションの世界を往還する旅である。

この10年で、旅する仲間がふえ、社会状況もメンバー個々人の人生も大きく変わった。まだ旅のゴールはみえない。ただ一つはっきりしているのは、驚くべく成熟したチームワークをもつ研究グループができた、ということである。

10年目の桜を眺めながら、そんなことを考えた。

マネの黒

フォトナム&メイソンの筋向いにある

会場は「フォトナム&メイソン」の筋向い

4月14日まで、ロンドンの王立美術院でマネの肖像画展がひらかれている。噂通りの盛況である。11時半に当日券売り場にいくと、いつも閑散としている建物の前に50~60mの行列ができていた。時間差をおいて、20人分ずつ発券しているらしい。

ルノワールやモネなどは日本でも見る機会があるが、マネの油絵50点となれば話はべつだ。イギリス人でなくたって並んででも見よう、という気になる。

切符売り場の行列

切符売り場の行列

最後尾に立っていたら、白髪の老婦人が近づいてきて、手に持っているこの入場券を12ポンドで買わないか、という。「まさか、ダフ屋まででるのか?」と驚いていると、当日券は15ポンド(2250円)だからお得なはずだ、と意外なことをいう。それに、水色のレインコート姿が、どうみても律儀な英国婦人そのものである。

きけば、午後2時15分入場指定の予約券で、時間の都合がつかなくなったから手放したいのだという。理由はわかったが、丁重にお断りし、50分ほど並んで入場した。

内部もかなり混雑している。週日の昼間とあって大方が年配者である。イヤホンガイドを聴く人が多いところまで日本の展覧会と似ている。違っているのは、ベビーカーを押すご婦人や車椅子を利用する人の姿がめだつことと、人を押しのけてでも見ようという人が誰もいないことだ。

輪郭線のない絵だから、最初はちょっと頼りない印象だが、すぐに色彩や光の心地よい諧調につつまれる。1室、2室とすすむうち、黒い洋服の人物像が多いことに気がついた。例の「すみれの花束をつけたベルト・モリゾ」(1872年)の衣装などは、つやつやと濡れたように輝いているし、花鳥図屏風と相撲取りの浮世絵を背景にした「エミール・ゾラ」(1868年)では、黒い上着が彼の白い横顔の英哲さをいっそう際立たせている。

そう思ってみると、「ランチョン」(1868年)、「アントニン・プルーストの肖像」(1880年)、「アマゾン」(1882年)など、黒い衣装の人物像が20点以上もある。驚いたのは濃淡も、光彩も、透明感も、質感もそれぞれ違っていることで、マネが黒の表現にどれだけ工夫を凝らしていたかが一目瞭然である。

あまりに楽しかったから、第1室までもどって、黒をテーマに会場をもう一巡してみた。ロンドンでこんなにフランス絵画を堪能したのは、5年前に、コートールド・ギャラリーでセザンヌ展の収蔵品のレベルの高さに仰天して以来である。

第12回高校生プレゼンフェスタ(2)

ウォームアップ 「あっちこっち」

ウォームアップ 「あっちこっち」

昨日、はじめて出会った高校生たちがグループ・プレゼンテーションに挑戦する「第12回高校生プレゼンフェスタ」(早川則男運営委員長)があった。会場の跡見学園中学高等学校は都内屈指の伝統校で、あいさつはすべて「ごきげんよう」、桜の紋が校章である。花曇りの暖かい一日とあって、夕方校舎をでるころまでに玄関前の桜がほぼ満開になった。

午前10時半開始のプログラムは、大きく3つに分かれている。A:ウォームアップ・アクティビティ+ガイダンス(1時間)、B:昼食をとりつつプレゼン準備(2時間)、C:プレゼン本番+振り返りと講評(1時間半)である。

チーム構成もプレゼンのテーマも、生徒は当日に知らされる。その直後から、2時間の準備で5分以内の発表をつくることになる。発表形式は全身をつかう演劇的手法だ。こうした強い制約のもとで創造のプロセスを味わうプロジェクト、それが「プレゼンフェスタ」である。おそらく高校生の交流事業として、日本ではじめての取り組みだろう。

パイロットケースと位置づけた今回は、東京・埼玉の8つの高校から44人(男女 1年生~3年生)が参加してくれた。カナダ、オーストラリア、フランスなどに留学した経験をもつ人がかなり入っているし、外国籍の人もいる。

この44人を各校混成の8チーム(各5~6人)に分ける。提示したテーマは、「かっこいい大人になるには」と「若者よ、海をわたれ!」のどちらか1つ。図書室もコンピュータ室も完全開放だから、自由に発表会場とのあいだを移動しながらプレゼンをつくる。

まったくもって楽しい発表だった。生徒から「かぶる発表がひとつもなかった」と驚きの声があがったように、彼らの考えた論点も状況設定もそれぞれ違っていたし、発表形式もスキット、ニュースショー、ディベート・ドラマと多彩だった。

跡見学園の桜 朝の風景

跡見学園の桜 朝の風景

なかでも「かっこいい大人になるには」をやったDチームの洗練ぶりが光った。彼らは、かっこ良さのポイントを4つあげる。ダンディーさ、他人にない独自の能力、教養、知識である。

面白いのは振り分けで表現する工夫だ。下手にならんだ3人がそれぞれのポイントをめぐって会話すると、観客に背を向けて立っていた上手の3人が突如ふりむき、どのポイントもそれだけでは「かっこ良さ」の十分条件にならないことをショート・スキットで演じてみせる。これら4つを総合する人間的経験こそ大切、が結論だ。「それをめざすのはいつ?」「今でしょう」と話題のCMをパクって全員が唱和し、会場がワーッと沸いた。

講評で「次の機会にまたやってみたい?」と訊くと、参加者のほぼ全員が躊躇なく手を挙げた。相当な充実感、達成感だったようだ。運営委員の振り返りでも、中原道高さんや田ヶ谷省三さんから、これまでの10年間の蓄積がすべて活かされた結果ではないか、という意見がでた。わたしもそう思う。

新企画の成功を支えているのは、教師側のチームワークの成熟である。周到に準備されたウォームアップ・アクティビティ、見事なデモンストレーション、柔軟なプログラム管理、こまやかな会場校の心配りなどによくそれが示されている。

これらと、引率メンバーのひごろの教育活動とが相まって、生徒が安心して自分をだせる表現空間が生まれたのである。かくして高校生意見発表会が新しいステージに入った。

「オペラ座の怪人」を観る

ハー・マジェスティーズ劇場

ハー・マジェスティーズ劇場

日本に帰ったとたん、忙しさと花粉症がいっしょに戻ってきた。

旅先での失敗がたくさんある。今回は、ミュージカルの開演に遅刻した。「オペラ座の怪人」のはじまりは7時半(日本時間・午前4時半)である。

取材で街中をかけまわり、4時にホテルにもどってちょっと休んだのがいけなかった。「ハッ」として目が醒めたらちょうど開演時間だった。劇場までドア・ツー・ドアで25分はかかる。

そもそも「オペラ座の怪人」というのが鬼門である。以前、夏のブロードウェイであかり座メンバーと観たときは、会場の冷房が強すぎてとても芝居に入り込める状態ではなかった。みな平然としている様子をみると、ニューヨークの人たちの寒さへの耐性は尋常でない。そちらの発見の方が大きかった。

ハー・マジェスティーズ劇場のがらんとした玄関ホールにかけこむと、大柄でふくよかな案内人の男性が、演台のような細長いテーブルをかかえてぽつねんと立っている。

それ自体が絵のような景色だ。チケットをだして中入りの時間をたずねたら、まだ35分あるから、いまから会場まで案内するという。

こちらはパリのオペラ座

こちらはパリのオペラ座

燕尾服の背中を追っていくと、いったんもとの道路にでて、劇場の建物を右手に回りこむではないか。最初のドアのまえで立ち止まり、ポケットからすばやく鍵をだしてドアを開け、私をなかに招じ入れた。ほとんど敏捷といっていいくらいなめらかに動く。

建物のなかは真っ暗だが、どうも狭い廊下かなにかのようだ。もうひとつドアをくぐったら、もうそこが一階観客席のうしろ側の通路だった。

とりあえずこのあたりの空いている席で芝居を観ていろという。もともと私が予約した席は、7列目のまん真ん中である。10数人の観客に立ってもらわないと、座席にたどりつけないのだ。

休憩時間になって、本来の席についたら、珍しく若い日本人女性のとなりである。小柄で可愛らしい声の持ち主だ。きけば、語学研修でロンドンにきた早稲田大学の2年生で、はじめてのミュージカル鑑賞なのだという。理科教師をめざしている人らしい。

壮麗な建物でシャガールの天井画がみえる

壮麗な建物でシャガールの天井画がみえる

「オペラ座の怪人」はひときわサービス精神旺盛な舞台である。怪人が宙乗りで歌うは、床から何本も火柱が噴き出すはと道具立てが派手なうえに、マジックで主人公が姿を消す趣向もあって、最後まで観客を楽しませる。クリスティーヌ役者の方は、伸びのある歌い方はいいのだが、ややかすれた声質である。

ピカデリーサーカスの駅に向かう途中、くだんの学生さんが、教師という職業への憧れと抱いている不安について語ってくれた。そんなこんながあったせいで、芝居の中身もさることながらむしろ彼女の初々しい向学心のほうが印象に残る一夜だった。

アクティビティへの注目

一仕事おえ、行きつけのパブで

一仕事おえてから、行きつけのパブで

今回のロンドンは晴れの日が続いている。キリリとした寒さで、ものを考えながら歩くのにちょうど良い。

アクティビティの教育的意義から目を離せなくなったのは、1995年からである。きっかけが二つある。

ひとつは、イギリス人とオーストラリア人の若い同僚がやってくれたICU高校でのドラマ・ワークショップだ。それぞれの国でドラマ教育を学んだ二人だが、使う技法はほとんど共通だったことから、のちに「学びの共通言語としてのアクティビティ」という発想が生まれることになる。

もう一つが、当時カナダにいたD.セルビー教授(ケント大学→トロント大学→プリマス大学)のグローバル・エデュケーション・ワークショップだ。こちらは筑波大学附属駒場高校のホールが会場で、参加者は教科研で活躍する生きのいいメンバーたちだった。

4時間のワークショップでつかわれるのは、ゴーイング・ドッティー、ウーリー・シンキングなどわずか4つアクティビティである。その分たっぷり話し合いに時間をとる。彼のもの静かな語り口とあいまって、感情的熱狂からはるかに遠い知的なファシリテーションである。

1980年代からアクティビティ・ブックがいくつか翻訳されていたが、グローバル・イシューの存在を可視化したり、参加者の学びを深めたりするツールとして、アクティビティが実際に機能する場面にふれたのが新鮮だった。

ワークショップの翌日、セルビー夫妻とわれわれ夫婦で高尾山にのぼった。自然が好きだという二人は、瞑想を好み、東洋的なものに関心が高く、そのうえ質問魔である。ついでのことに、神聖な場所にどうしてこんなにゴミが多いのか、と穏やかに問いただされた。

彼らのエピソードもたくさん聞いた。そのなかに、同僚のG.パイクと組んで1000種類近いアクティビティのストックをそろえたことや、夫人と出会ったその日から二人で丸2日間語り続け、とうとう結婚にまでいたった経緯が含まれている。

とにかくポテンシャルが高い。その本たるや『グローバル・ティーチャー グローバル・ラーナー』のようにスケールの大きいタイトルがついているというだけでなく、そもそも物理的ボリューム自体が大きいのである。それをたくさんかばんにつめて飛びまわっている。

その後も、セルビー招聘の立役者である河内徳子先生(大東文化大学教授 故人)を中心に共同研究をつづけ、1997年に『学習の転換』(共編著 1997年 国土社)を出版した。気鋭の研究者、実践家、NPO関係者17人が執筆する本だ。

その第1章「授業をどう変えるのか―学びの手ごたえ 学びの味わい」が、わたしが正面からアクティビティにとりくんだ最初の原稿である。ここでは、アクティビティを日本の教育界で使われてきた「活動」という言葉ではなく、あえてカタカナのまま表記し、より広い概念として定義することにした。それが今日までつながっている。

末尾で「やがては、日本で開発された優れたアクティビティが海を越えて、世界に紹介される時代がくるのではなかろうか」と予言したが、この間の蓄積の大きさを考えるにつけ、これもそんなに遠い将来のことではないだろう、と感じている。

共同研究のはじまり

うしろはラッセルズ・ホテル

うしろはラッセルズ・ホテル

いまロンドンでこの文章を書いている。はじめて出版した教育実践集が、NHKブックスの『帰国生のいる教室-授業が変わる・学校が変わる』(1991年 和田雅史さんと共編)である。これはICU高校の同僚たちと3年がかりでつくった本で、いわば自主的な職場研修の成果物といってよい。

企画書を自分で書いてNHK出版に提出するなど、はじめて尽くしの本だった。まだ、執筆者のだれも単著をもっていないころだし、ラフ原稿さえなかったのだから、架空のプランでよく企画を通してくれたと思う。

さいわい「天声人語」でとりあげられるなど、好評をもって迎えられた。帰国生問題への社会的関心が高まっていたという客観情勢のほかにも、いくつか幸運が重なっている。

一つは、学校の草創期からの経験を共有する多彩なメンバーが集まったことだ。その後、グループ9人のうち4人まで大学に転職しているところをみると、もともと研究志向の強い人たちである。それでも読み物を書くのはむずかしい。章立ては、政経、キリスト教概論、カウンセリング、英語、日本語、保健体育、物理の順である。

もう一つは、獲得型授業論を提起した『海外帰国生』(1990年)の翌年の出版だったことだ。おかげで実践と獲得型授業の理論を融合させて問題提起する本ができた。わたしは1章「生徒と教師の「政経レポート」作成奮戦記」と終章「国際化時代の帰国生教育」を書いている。自分自身の実践と共同研究のフレームの両方を寄稿するスタイルは、この本が最初である。

ロンドン大学の午後 日向ぼっこする学生たち

ロンドン大学の午後 日向ぼっこする学生たち

終章では、日本の授業のバランスを徐々に獲得型の方向に移しかえていくべきだということ、教育条件を欧米先進諸国のレベルにまで引き上げるべきであること、そして授業のなかだけでなく、学校の構造全体に生徒の自主性が生かされる環境を意識的に用意する必要があること(学校文化の見直し)、の三つを提案している。

執筆メンバーの顔合わせを、所沢に引っ越して間もないころのわが家でやった。真夏のこととて、大人数でも涼しく話せるからということだったのだが、よりにもよって当日にエアコンが故障し、汗みどろの会合になってしまった。

どんな本でも原稿作成に苦労はつきものだが、終盤にさしかかり、タイトル決めの段階までくると、それまでの苦労がすべて報われた気がする。ああでもない、こうでもないと色んなキーワードを組み合わせて楽しむのが至福の時間である。

『帰国生のいる教室』では、いまのサブ・タイトル「授業が変わる・学校が変わる」もメイン・タイトル候補のひとつだったが、「帰国生」というキーワードに「教室」ということばをつなげて、やっとおさまりのいいメイン・タイトルができた。アイディアをだしたのは、妻である。わたしの動きをそばで見ているうちに、より客観的に企画の趣旨をとらえるようになっていた、ということだろうか。

実践報告を書く(2)

日大の系列校で国語の教師をしているKくんが、研究室を訪ねてきた。7年前まで大学院のゼミをとっていたひとだ。中1から高3まで担任をもちあがり、一通り学校の様子がわかったので、これから実践報告・論文の執筆に挑戦したいという。

実践を言語化することは、自分の歩みを確認するもっとも良い方法のひとつだ。ただ、どんな職場でも論文の執筆が職業的義務とされているわけではないから、トレーニングをうける機会にめぐまれないのが普通である。

そのことからくる困難について、以前書いたことがある。ちょっと長くなるが重なる部分を引用しておこう。(「高山実践に関して」佐藤信編『学校という劇場から』論創社 2011年 所収:改行を変更してある)

「実践報告を書くのはとても難しい。授業の「全体像」を原稿用紙30枚で伝えようとしたらなおさらのことだ。文章の構成やポイントの置き方といった問題を脇においたとしても、授業実践を成立させている要素にまんべんなく言及しておかないと、どうしても独りよがりの文章に見えてしまう。

その要素というのはおおよそ以下の6つである。すなわち、①授業のねらい、②実践の枠組み(カリキュラム、学習環境、生徒側の準備状況など)、③教師側の働きかけ、④学びの場で実際に起こったこと(場の力学、応答の様子など)、⑤学習者側の変容、⑥実践を通して得られた知見、である。このうちのどれが欠けても、読み手の方では「何かが欠落している」という印象を受けてしまう。

ただ、本当の難しさはそこではない。よく使われる比喩に「授業は生もの」という言葉がある。一回性、即興性、偶然性に支配されていてシミュレーション通りには進まないものだが、それがまた授業の醍醐味でもあるということだろう。カリキュラムに沿って進んでいくうちに「授業のねらい」そのものが変質してしまうことも決して珍しくない。

大きな困難は、こうした授業という<教師‐生徒、生徒‐生徒>の“関係性が営まれる場”のダイナミズムを、教師側の視点からどう記述できるのかという問題である。

この困難には二つの側面が含まれる。一つは、「実践者が実践を記述する」ことに伴う客観性の担保という問題である。“教室の閉鎖性”に対する疑念から、「教師の主観的願望をもとに資料をつぎはぎして“物語”をでっち上げることだって可能じゃないか」という高飛車な物言いをする研究者がいることも確かである。報告者のモラルに関わるものだが、これはむしろ授業実践だけでなく調査研究などにも通底する問題と考えるべきだろう。

もう一つの側面は、オリジナルな文体の獲得という問題である。授業実践を言語化するという行為は、多様な活動、多声的な語りが交錯する空間の意味を解きほぐし、言葉で再定義することである。授業を企画し運営する技量と授業実践を記録し文章化する技量の間には深い関わりがある。

しかし、だからといって、必ずしも両者がパラレルに向上していく訳ではない。授業空間のダイナミズムを「書き言葉」で表現するのは、誰にとっても容易な作業ではないからだ。対象と一定の距離を保ち(距離感・観察眼)、諸要素の配置を工夫し(構成力・再現性)、学習者の内面の変化をリアルに記述する(イマジネーション)文体は、意識的なトレーニングなしに身につくものではない。」

Kくんは、大学院で思想研究をしていた。教える立場になってみて教育方法に関心を持たざるをえなくなったらしい。「先生のあとをおいかけている気がします」というが、Kくんの実践研究への注目は、研究的志向をもつものの自然のなりゆきだろう。

実践研究には、純粋な文献研究とちがう種類の洞察力がいる。研究の成熟にも時間がかかる。一朝一夕にはいかないかもしれないが、その意気込みがなんとも頼もしい。