月別アーカイブ: 1月 2013

宝の山へ―奈良歴史教室

わたしは、近鉄奈良駅をでて、登大路を東大寺の方向に歩きだすと、きまって足取りが軽くなる。期待感がそうさせるのだ。ICU高校の歴史教室でも、奈良博の手前の、歩道が少し高くなったあたりまでくると、帰国生たちを集めて「これから宝の山にはいるんだからね」と、いわずにいられなかった。

若い同僚の高柳昌久さん(日本史)と、隔年実施の歴史教室をはじめたのが1990年のことである。飛鳥仏から鎌倉仏まで、仏像鑑賞の手ほどきを柱にした、2泊3日の旅である。

海外で「お寺と神社の違いは?」などと質問され、はかばかしい答えをだせない自分をみつけて、「もっと日本のことを知ろう」と決意する帰国生がたくさんいる。こちらの話がしみ込むように入っていくから、奈良にいくと、ついついしゃべりすぎてしまう。

初日は、東大寺で半日すごした。南大門、大仏殿、鐘楼、三月堂、二月堂、転害門、戒壇院とめぐり、若草山のふもとにある宿・むさし野まで歩く。20人にみたないメンバーだから、機動性にとんでいて、二月堂の茶店での休憩も可能だ。2日目が法隆寺、薬師寺、唐招提寺。3日目の朝に興福寺をみて、京都に移動する。

8月の奈良はなにしろ暑い。バスと電車を乗り継いで移動するのだが、どの寺も閑散としている。そのかわり、日よけの帽子と扇子が手放せない。「なんかの修行みたいだね」という感想もきこえてくる。

外光のなかから法隆寺金堂に入り、柵越しに内陣をのぞくと、目がなれるまで真っ暗である。懐中電灯で、内部を照らしながら、諸仏の様式、仏像のうえにある天蓋、壁面に描かれた宝相華や飛天、また浄土変相図焼失の経緯などを説明していると、生徒のまわりに、年配者の人垣ができた。いっしょに聴こうというのだ。それもあって「よし。リタイアしたら奈良に住み、神出鬼没の“勝手にガイド”をやろう」と、大真面目に考えた。

その後の10年あまり、歴史教室にかぎらず、ICUや日大の学生をガイドして、なんども奈良を訪ねるうち、自分にとっての奈良が、ずいぶん変わってしまったことに気づいた。もともと、ひそかな内省の場所だったはずの寺でらが、まるで教室のような場所になっていたのである。70年代、80年代に感じていたワクワク感が、すっかり影を潜めてしまった。わたしは奈良の仏像について、多くを語りすぎたようである。

そうした喪失感の一方で、別の感情もある。「あれがきっかけで、いまも奈良に通っています」と書いてくる教え子の年賀状をみると、次の世代にバトンタッチできたようで、嬉しくなるのだ。自分が根っからの教師だと感じる瞬間である。

 

ものの見方のトレーニング -仏像行脚

仏像行脚がものの見方のトレーニングになったというのは、ずいぶん大雑把ないい方だが、それはこんな事情である。

ひとりで奈良通いをはじめたのは、20代前半のこと。当時、和辻哲郎『大和古寺巡礼』、亀井勝一郎『大和古寺風物詩』、会津八一『自註鹿鳴集』、掘辰雄『大和路・信濃路』がわたしの旅のガイドで、京大式カードに抜書きした作品批評をいつもカバンにいれていた。

名文に導かれて一級品の良さを味わう旅である。学生時代にこれといった訓練を受けていないから、自分の直観をたよりに無手勝流の鑑賞をしていたわけだが、歩いているうちに、自分の好みだけはわかってきた。

こうした「感覚のトレーニング」の良さはもちろんある。ただ、気をつけないと、見るという行為が、作家の目をかりた疑似体験でおわる危険もある。美術展などで「あ、これテレビで紹介されてた」「こっちもそう」と確認しながら作品のまえを素通りする、あの姿と変わらないことになるのだ。

20代半ばで加わった「美術の会」のメンバーには、歴史学や美術史のトレーニングを受けた人たちが多い。その影響で、図像学はもちろんのこと法隆寺の再建・非再建論争、白鳳期をめぐる時代区分論争など、美術史の専門研究にふれるようになり、関心領域も建築、庭園、絵画などに広がっていった。

そうこうしているうちに、1980年から地方仏めぐりがはじまる。ICU高校に移った28歳のときだ。久野健『東北古代彫刻史の研究』『仏像風土記』『秘められた百寺百仏の旅』、丸山尚一『生きている仏像たち』『秘仏の旅(上)(下)』に作例がたくさん紹介されているから、地方仏を全国規模で俯瞰するのにも、訪問プランを組むのにも役立った。

面白さの一つは、様式的特徴の混在である。地中海世界に発したルネサンスが、長い時間をかけ、さまざまな文化的バリエーションをうみながら、北方に広がっていったが、日本の仏像様式の伝播にも同じような傾向がある。地方仏の場合、新しい様式がただちに古い様式にとってかわるのではなく、前の様式も取り込んで、いわば積み重なるように定着していく。このことが、過渡期的作例とみえるものが多く残された理由ではないか、と考えた。

現地に足をはこぶごとに、疑問もふくらんできた。仏像の造像精神がその土地の風土性とどこまで結びついているものなのか、これまで見てきた一級品に対する印象批評のようなものがどこの仏像でも成立しうるものなのか、またそもそも便宜的につかっている地方仏という概念そのものが成立しうるものなのかどうか、というような疑問である。

これらの疑問は、いま目のまえにある仏像の「なにに着目して、どうみるのか」ということに直結している。そこで、1983年に、自分がこれまで仏像とどうむきあってきたのか、その態度を整理してみることにした。浮かび上がってきたのは6つの態度だが、それをごく簡単に書いてみよう。

(1)礼拝する。救いをもたらすものへの信仰の表現としてだけでなく、一千年も連綿と守り続けてきた人々への敬意をこめて礼拝する。

(2)鑑賞する。破損も後補もふくめて、すべては歴史的時間の堆積である。だから、いままさに崩れ落ちんとする状態をも風情としてうけとめ、あるがままに鑑賞する。

(3)対話する。仏の力の偉大さを可視化するのが仏像であり、造像表現としての特徴は人間の姿を超出するデフォルメの仕方にある。それに成功した仏像は、ある種の聖性を感じさせるから、それにむきあう行為が内省をよびおこし、自己内対話がうまれる。

(4)復原する。いまある仏像が完成した当時のあり様を、想像力を駆使してこころのなかに描いてみる。コンピュータ・グラフィックスのおかげで、いまでは、入門書でもそうした写真が使われるようになっている。

(5)分析する。図像学の力をかりて、様式的な特徴や技法を分析したり、類例と比較したりして特徴をあきらかにする。エックス線による構造調査や年代測定法による素材分析の結果なども活用する。

(6)史料にする。造像の由来や寺院の来歴など、残された歴史資料を参照し、施主、造像の精神、信仰形態、安置された建物、周囲の環境などを、目の前の仏像を手がかりにしてできるだけ正確に再現する。

ひとつひとつの態度は、何も特別なものではない。ただ、この作業をしてみて、気づいたことがある。それは、いくつかの要素を意識的に組み合わせることで、わたしが仏像の見方を方法化しようとしてきた、ということだ。一つの視点から対象を深く掘り下げてみることと、ものごとを総合的にとらえることを同時におこなう、というスタイルである。

10年間の経緯でみると、(1)-(3)が中心となる時期から、(4)-(6)の比重が大きくなる時期へのゆるやかな移行がみられる。目に見えるものだけでなく、目に見えないものをみる、という態度がより強くなってきたのだ。その意味で、仏像をみることが、わたしの「分析力のトレーニング」だけでなく「想像力のトレーニング」にもなっている。

良かったのは、メンバー同士で、それぞれの見方をひんぱんに交流できたことである。実物を前にしながら、宿に引き上げてから、東京に戻ってスライドをみながら、という具合に繰り返し語り合ったことが「言語化のトレーニング」にもなっている。

それでなくても、美術史が素人のわたしは、どんどん想像力を働かせ、勝手な方向に想念を飛躍させる癖がある。歴史的事実にそくして考える訓練をうけた人たちと一緒の旅が、発想のバランスを保つ、という意味でも大事なことだった。

1980年を境として、仏像の見方がおおきくかわっていく。見るということに、より自覚的になったのだ。その結果、仏像の見方というだけでなく、わたしの「ものの見方」そのものが、急速に変容していくことになった。

宇内薬師堂-薬師如来

「川前の宿」の翌日のこと。以下に記す1981年11月23日の宇内薬師堂の様子は、フィールド・ノート「いま歩きあるき考えていること」(第2集)から再現したものである。

盆地をかこむ山々は、一夜のうちに白さをまし、朝の光をうけて輝いている。会津はすっかり初冬の景色である。

今回の最大の収穫は、会津坂下町浄泉寺(宇内薬師堂)だ。その無住の寺は、戸数わずか11戸の集落にある。この村の人たちは、心映えの美しい人たちに違いない。つつましい境内が、すみずみまで掃き清められている。

本堂のまえで農家の方がでむかえてくれた。ほとんどないことだが、中学生の息子さんも一緒にいる。本堂にあがり、正面の祭壇に一礼して、左わきの廊下を進むと、大きな金庫をおもわせる収蔵庫につきあたった。その鉄製の扉がゆっくり開く。背後からさしこむ光が、収蔵庫のなかを明るくし、目の前に薬師如来の姿をうかびあがらせたときは、おもわず声をあげた。

堂々たる丈六仏、圧倒的な量感である。分厚い体部をおおう通肩の衲衣が、かすかに朱色をおびてみえる。対照的に、衣からのぞく肉身部は、鍍金がかすれ黒漆の色がめだつ。とりわけ、張りのある若々しい顔貌が、黒くつやつやと輝いている。その輝きが、なぜか奈良円成寺の大日如来像を連想させる。

いつものように、正面に正座し、一礼してから、ゆっくり拝観する。一粒ずつ植えられた大きめの螺髪が、頭部に陰影を与えている。ひざなど下半身は後補のようで、表現が類型的でやや平板な印象だが、両肩のもりあがった力強いモデリング、ふくよかさと緊張感が同居する顔の輪郭線をみていると、藤原仏の品格だけでなく、貞観仏の力強さも残す像だと感じられる。

平安時代には、金銅仏や乾漆仏にかわって、たくさんの木彫仏がつくられた。木材は、手に入りやすく加工も容易だが、朽ち果てるのも早い。時の権力と運命をともにして亡失した作品も多い。だから、いま各地に残っているのは、人々の暮らしに根をおろし、信仰の対象として守られてきたものだけである。

しきりに感嘆するわたしたちの話を、父子がニコニコして聞いている。そのうち、寡黙な父親が「このあいだ、俳優の三国連太郎さんがきて、しばーらくここに座ってました」と教えてくれた。

集落の人たちが、この薬師如来像を誇りにすることいかばかりか。10世紀から千年のあいだ会津盆地に鎮座してきたこの像は、これからも大切に守られていくことだろう。

注) 30年たって、この集落はどう変わっているのだろうか。美術の会の仏像行脚は、「訪問地決定―下調べ・資料作り―往復はがきでの訪問依頼―現地訪問・スライド撮影―帰京後の振り返り・作品批評」というように、かなり時間のかかるプロジェクトである。このサイクルを10年間繰り返したことが、結果として、わたしの「ものの見方」のトレーニングにつながっている。

川前の宿で-会津盆地の旅

ICU高校に移ったのが1980年。ここからの10年間が、地方仏行脚にもっとも力を入れた時期である。まずは1980年の夏に若狭、1981年の夏に北上川流域、晩秋に会津盆地というように寺院をめぐった。

会津地方は、勝常寺や上宇内薬師堂の薬師如来、大蔵寺の千手観音など、平安仏の宝庫である。このときは、倉橋俊一先生、中村憲治さん(駒場東邦高校)との3人旅。郡山で雪まじりに見えた空が、猪苗代湖あたりでは、とうとう車の視界がぼやけるほどのふきふりになった。

仏像をまえにすると、どうしても長居してしまう。ハガキで約束したとはいえ、鍵をあけてくれる人は、災難である。こちらも、じっくり見たいやら相手が気の毒やらで、落ちつかない。それもあって、しだいに知恵がつき、子細にみる者、管理のひとと雑談する者というように、阿吽の呼吸でローテーションを組むようになった。

2泊目の宿は、阿賀川の岸辺にある慶徳町川前の釣り宿である。仏像をみるのに、釣り宿というのもどうかと思うが、釣り好きの倉橋さんの好みだ。ところが、喜多方の町をではずれてからも、なかなか宿につかない。20分も走ったろうか。山に分け入り、舗装が途切れ、こんどは曲がりくねった急斜面をぐんぐん下りだす。あたりは真っ暗である。

ヘッドライトが照らすさきに、民宿の看板があらわれたときは、さすがにほっとした。オフ・シーズンにもかかわらず、作業着姿の先客4、5人が、すでに食事を終えようとしている。20代から50代とおぼしき物静かな男性グループだ。ふすまを取り払った二間続きの部屋に、石油ストーブがポツンとひとつ。食事がすむともう何もすることがない。

渋茶をすすっておしゃべりしていたら、送電線の管理でここに泊まっていると分かった。冬山にわけいり、鉄塔にのぼって高圧線の雪を落とす、そんな仕事らしい。高所恐怖症気味のわたしとしては、ぜひにも様子が知りたい。

下を通るだけで、ジリジリうなる音が聞こえるくらいだから、数万ボルトの電流がつくりだす磁場のつよさは、相当なものだろう。ただし、高圧線にふれて命をおとす事故はほとんどなく、用心すべきは、うっかり枝線にふれ、そのショックで転落する事故なのだという。

意識のとどかないところに落とし穴があるというこの教訓は、生命の危険と隣りあわせの仕事から生まれたものだが、われわれの人生訓にもなりうる。訥々と語られる年配者たちの生活哲学を、若者が黙って聞いている。きっとこの人たちは、高所の作業を可能にする知恵と身体技法を、豊かに継承しているのだろう。

あまりの寒さで、セーターを着たまま布団に入った。夜があけると、翌日は快晴。フロントガラスの霜を溶かし、山を見上げ、なるほどこの河岸段丘をかけくだったのか、と納得する。この年から、雪山に屹立する鉄塔をみるたび、川前の宿の一夜を思い出すようになった。

大雪とスキーの身体

大雪の成人式である。雪に降りこめられて、連休の最終日を家で過ごした人も多いことだろう。

大雪の記憶では、やはり三八豪雪(1963年)が鮮明である。小学校6年生のときだ。「かまくら」で有名な横手市などとちがって、平野部にあるわたしの村は、さほど降雪量の多くない地域なのだが、この年ばかりは、けた違いの雪がのしのしと降った。

屋根から降ろした雪の高さが、軒端ちかくまできたのを幸い、足からプールに飛び込む要領でダイブして遊んだ。全身がかくれるほど、柔らかい雪に埋もれるのがなんとも楽しかったが、すぐそんな悠長な状態でなくなった。窓という窓が、雪の壁でおおわれ、日中でも家の中が薄暗くなってしまったのだ。

隣町の映画館に「まぼろし探偵」がかかると聞き、集落の同級生で観にいった。自動車みちが、細く踏み固められた一本道になっている。列をつくって、踏み跡をたどっていくと、足元から自動車の屋根がでてきた。雪で立ち往生した車が、そのまま放置されてしまったものらしい。

物心つくころから、そりやスキーに親しんでいた。最初の記憶は、ごく幼児期に、祖父が見守るなか、庭の築山からそりで滑りおりたときのものである。

小学校時代は、スキーに夢中だった。近くの山が雪に覆われるのをまって、朝早くから暗くなるまですべる。スケートもやったが、こちらの難点は、池の氷がじゅうぶん厚くなるまで待たねばならず、楽しめる期間が限られることだ。

もちろんスラロームを楽しむようなゲレンデもなければ用具もない。60年代半ばになって、スキー板とスキー靴をセットで買ってもらう子もあらわれたが、大方は長靴をゴムバンドでスキー板と固定する簡易ないでたち、素早いターンなどおよびもつかない装備だった。段々畑の頂上までスキー板をかついでいき、あとはひたすら滑降する。大きなギャップもそのままジャンプで越える。実際のところは、ブレーキをかける方法がなかったというのが正しい。

誰に習ったのでもないが、乱暴なすべりを、見よう見まねで繰り返しているうちに、バランス感覚がきたえられ、滅多なことで転倒しなくなった。

中学校のときから、ほとんどスキーというものをやっていない。ただ、実践で身につけた感覚は、ながく残るらしい。というのも、ICU高校の教師時代、初級者コースではあれ、スキー教室の指導員の役割を大過なくこなせたからだ。

長崎の市場にて

旅先の市場の印象が、その土地の印象として記憶されることがある。市場は、日常の暮らしが垣間みえる場所だからだ。品ぞろえにあらわれる風土性、客と店員がやりとりする声の調子、接客のあいまに店のすみでつかうお弁当のおかず、これらすべてがあわさって町の印象になる。

だから、京都なら、錦小路よりも出町の小さな市場、那覇なら、公設市場よりも細い路地にびっしり商品台がならぶ栄町市場に、より旅心をさそわれる。

1985年の晩秋に、長崎県にある青果市場を訪ねた。さほど広くない道をすすむと、町角にひょっこり市場が姿をあらわす。足をふみいれるだけで、場内を一望できる、体育館のようながらんとした建物である。

右手の奥に、食堂と書いたのれんがみえる。カウンターの向こうでは、割烹着姿のご婦人が、洗い物をしている。ここで遅い昼食をとることにした。椅子が5、6脚あるが、ほかに客の姿はない。うどんができるのを待つあいだ、「お客さんどちらから?」「東京です」というお決まりのやり取りをする。

東京という言葉に反応して、女主人が、こんな身の上話をはじめた。親一人、子一人で育てた息子が、東京に働きにでて、サラリーマン家庭で育った気立てのいいお嬢さんと出会い、この町に一緒に戻ってきた。母をおもう孝行息子の行動がどれだけ嬉しかったことか。生活に余裕のない2人のアパートに、せっせと食材を届けることで、その気持ちをつたえた。

家族の幸福は、そう長くつづかなかった。つい最近、東京の両親が、娘を連れ戻しにきたのだ。もともと二人の関係をみとめていなかったらしい。「食堂を手伝ってもらったりして、仲よくやってたんだけどねえ」と、息子の嫁になるはずだった人との日々を思いだしてつくため息に、無力感と無念さがにじむ。

なぐさめの言葉がみつらないわたしは、ただ相槌をうつばかり。将来の不安を言いつのる東京の両親のまえで、じっと耐えている口べたな息子の姿が目に浮かぶようで、切ない。

かかえきれない悩みが、わたしたちを語らせる。昼食時の忙しさで紛れていた屈託が、客足が途切れるとともにあふれでて、ちょうどわたしが現れた。だれかに話したからといって、状況が変わるわけではない。ほんの少し気分が楽になるだけだ。それでかまわないのである。

その後、九州にいくたびに、たてつづけに同じような経験をした。熊本空港で乗ったリムジンバスで、自閉症の子をもつご婦人に、福岡を通過する鉄道で若い大工さんに、問わず語りで身の上話を聞かされたのだ。ほかの地方では、そんな経験をしたことがないから、なんとなし、九州には自己開示をおそれない人が多い、という印象が、わたしのなかに残ってしまっている。

新春合宿

新春合宿 13年ン 014

獲得研の新春合宿(1月4日―5日)があった。ことしで7回目。時間を気にせず、夜中までおしゃべりできるのが合宿のいいところだ。ディスカッション漬けの2日間をすごすたび、「いよいよだなあ」と新しい年のはじまりを実感する。

ドラマ教育30年のキャリアをもつ林久博先生(成蹊小学校)のワークショップが新鮮だった。糸繰り人形・オズワルドの動きを全身でまねたり、伝言ゲームを楽しんだりしながら、いろんなアイディアを教えてもらった。

「ぞうさん」の研究

「ぞうさん」の研究

林さんは、いつも一日のはじまりを楽しく、と心がけているらしい。ワークショップになると、ふだんの物静かな口調が一変し、変幻自在に声や表情を使いわける。林さんをみていると、やる気スイッチならぬ役者スイッチというのが、ほんとにある気がする。さぞかし楽しい教室なのだろう。

新春合宿では、毎年“獲得研のいま”を確認する。研究のミッションが何で、研究がどこまできたのか、これからどこに力点をおくのか、みんなで考えるのだ。

獲得研がやってきたのは、獲得型学習システムの開発と普及にかかわる研究のすべてである。学習モデルをつくる、学習ツールとしてのアクティビティを整理・体系化する、アクティビティの効果的な活用方法をさぐる、研究成果を公刊する、普及のためにあかり座公演をする、教師研修プログラムをつくる、というもの。

これらを同時進行でおこなうということは、基礎研究と応用研究を同じチームが担当するようなものだ。道のないところに道をつける研究だから、途方もなく時間がかかる。その分、やりがいもある。

第3巻の企画をねる

第3巻の企画をねる

共同研究8年目ともなると、研究コンセプトの共有が進み、ディスカッションがどんどん刺激的になる。実践事例を間にはさんで、小学校から大学までの教員が、一緒にディスカッションするのは楽しい。

それでなくとも「変さ」値の高い、柔軟な発想をするメンバーの集まりだから、いろんな視点が交錯して容易に議論が収束しない。暗礁にのりあげたり、袋小路に迷いこんだりと「わや」になる。

わたしは、そうした混沌状態が大好きだ。混沌をくぐって、パーッと視野が開けたとき、いったい何が生まれてくるのか、それを考えると、できるだけ長くカオスにひたっていたい気さえするのだ。これぞ共同研究の醍醐味である。

昨年は、出版事業が中休みの年、外部の専門家を招くなど、腰を落ちつけて研究できた。今年は、異文化間教育学会34回大会の運営、中高生プレゼンテーション・フェスタの開催など、新企画が目白押しのうえに、シリーズ第3巻の出版準備も本格化する。

走りながら考える時間がふえるということだが、どうしてか、もう一段あるいは二段、これまでより研究の深化がみられるだろう、という予感がする。

注)「変さ」値: 変わり者の度合いをしめす獲得研用語。偏差値のもじり。客観的基準というものはなく「いやいや、○○さんの方が、私よりよほど「変さ」値たかいですよ」などと、謙遜する時によく使われる。

 

阿川佐和子『聞く力』を読んでみた

いまシリーズ第3巻「教育プレゼンテーション」の刊行にむけて、資料にあたっている。本書はいわずと知れたベストセラー。900回を数える週刊文春の対談「阿川佐和子のこの人にあいたい」を素材に書かれている。対談相手は、いずれもその道で成功をおさめた知名人たち。

サブタイトルが「心をひらく35のヒント」とある通り、総計35の項目(=節)が、聞き上手とは、聞く醍醐味、話しやすい聞き方という三章にざっくりわかれている。実用書として読むにはいささかポイント過多の印象だが、面白い。「なぜ面白いんだろう」と考えながら読んだ。

まず、対談相手にまつわる“チョットいい話”風エピソードがつぎつぎでてくる。北野武、筑紫哲也、野村監督夫妻など、芸能人、マスコミ人、スポーツ関係者がおもだが、項目数と同じくらいの有名人が、裏話といっしょに入れかわり立ちかわり登場する。

つぎに、実践で会得したヒントだけが提案されていて、参考文献にたよることを一切しない。これが付け焼刃の理論をふりまわされるのとちがって、心地いい。

そして、聞き手である作者自身の物語が頻繁にかたられる。同じベストセラーでも、池上彰『伝える力』(2007)、『わかりやすく<伝える>技術』(2009)と大きく違うのはここだ。

それでいて、自慢話のくさみがないのは、自分との距離感が絶妙だからである。そこから見えてくるのは、相応の社会経験・失敗経験をかさねて、趣味・嗜好がはっきりしている50代の女性の自画像であり、内奥のことは知らないが、その人生を肯定するメッセージである。

阿川佐和子の文章は、遠藤周作の狐狸庵もののユーモアを髣髴させる。遠藤は、北杜夫の運転のつたなさを、ゴビ砂漠のような駐車場でも難渋すると揶揄してみたり、ときにはこんな誇張したエピソードを紹介したりする。

避暑地にいる遠藤家を、友人の北杜夫がひんぱんに訪ねてくる。それがいつも食事時とかさなるから、ついには彼の来訪が家計を圧迫しはじめ、困窮した遠藤家では、いたいけな息子たちが「北さんが来た」と玄関から奥にご注進におよぶようになる。このときばかりは、北杜夫のきたは「北さんがきた」のきた、杜夫のもりは「ご飯を盛る」のもりに聞こえた、という他愛無いオチがつく。

彼らの作品世界を知っている読者なら、その世界と作者本人の行動をかさねてみるだろうから、何層にも楽しめる。これは芸談といっていいものだろう。30年も前に読んだ文章だから、正確な記憶ではない。ただ、この芸談から、お互いへの敬意と信頼は伝わってくる。

阿川の文章は、そうした先行世代の芸談のスタイルを引き継ぐものに思える。小説家・遠藤周作の芸談の核に、彼の「文学」があるとすれば、エッセイスト・阿川佐和子の核になっているのは「彼女の生き方」そのもので、それが大方の共感を呼んでいるのではないか。

野鳥をみる―八国山

11月の八国山

11月の八国山

庭の梅の木に白ハラがとまって、野鳥シーズンの到来をつげたので、2か月ぶりに八国山をあるいてみた。

わたしは、書斎の窓から八国山を眺めくらしている。山とはいっても、東西に細長くのびる丘陵である。地面の高さだけなら、せいぜいわが家の屋根の3倍ていどだろう。

コナラ、クヌギ、イヌシデ、山桜などの雑木林をぬって尾根道がはしる。ゆるいアップダウンのある全長2キロの道は、早朝から日の暮れまで、散歩やジョギングを楽しむひとでいつもにぎわっている。尾根道の東端には、新田義貞の鎌倉攻めのおりの史蹟・将軍塚もある。

八国山の北側は、いまでこそ1100世帯がくらす住宅地だが、もともと大谷たんぼと呼ばれた農地である。引っ越してきた当時は、まだ半分も分譲されていなかったし、八国山を散策する人の数もすくなかったから、トトロのネコバスが、尾根道のむこうから飛んででそうな雰囲気だった。

1月 日が傾くころ

1月 日が傾くころ

バードウォッチングに熱中し、八国山を縦横に歩き回るようになったのはそんな頃である。それで、定番のツグミ、シロハラ、ジョービタキの類から、オオタカ、カケス、アカゲラ、トラツグミ、キレンジャク、キクイタダキなどまで確認できたから、どんどん勢いがつき、ついには窪地のいくつかに名前をつけ、自作の地図の上に観察記録をつけることまでした。

「ルリビーの沢」は、急斜面で、自然石の階段が長くつづく場所。ここには、毎冬きまって、まん丸の目玉が愛くるしいルリビタキがやってくる。ある年、高い山からおりてきたこの賓客は、きわめて社交的だった。行く手にしばしば姿をあらわすだけでなく、どうかすると、沢筋をおりきるまでついてくることがあった。

地面と低い枝のあいだをせわしく行き来しては、一瞬うごきをとめて首をかしげる。どうぞみてください、といわんばかりだ。数メートルの距離をたもって、立ちどまるととまり、うごくと先へすすむを繰り返し、林の出口にくると「ここまでですよ」というようにさっと姿を消してしまう。

「ツグミ沢」は、雑木の足元に小笹が一面にひろがる大きい沢である。ここでは、背伸びするように首をのばしたツグミが、一声鳴いて枝に飛びうつる姿にかならずであえるので、こう命名した。

ある冬のはじめ、地面がざわざわするような異様な生命感が、ツグミ沢いっぱいにみちていた。地面がうごくようにみえたのはおびただしい数のツグミがいたからで、シベリアから渡ってきた群れが、この沢を中継地にしたのである。わたしの出現がかれらを驚かせたようだ。いっせいにとびたった群れが、沢の中空をものすごいスピードで旋回すると、無数の羽音が重なりあってゴーッとうなりを発した。

八国山3 002山が騒がしくなって野鳥がへったり、わたし自身が忙しくなったりして、めっきり鳥をみにいかなくなった。ただ、この季節だけの、別のたのしみがある。晴れた日の夕方、あたりの空気が急速に冷えこんでくるころ、すっかり葉をおとした雑木林に、大きなオレンジ色の太陽がスーッと落ちる、いかにも武蔵野らしい景色がみられるのだ。