1980年代の前半、わたしはスランプの真っただ中にいた。1982年に博士候補資格試験をパスしたが、肝心の博士論文がいつまでたっても完成しない。なにしろ5年間に発表した思想史の論文はたった1本である。このころが思想史研究から教育実践研究への過渡期だった。
スランプの予兆はあった。それが1980年の「帰国生ショック」が引きがねとなって顕在化する。ICU高校は創立3年目。若い教師が多いうえに、ルーティンワークさえ整っていないあり様だから、職場にはクラブ活動みたいな熱気がみち、混沌状態である。
くわえて“政経レポート”実践をはじめる。必修「政治経済」を履修する3年生全員(240人)がおのおの関心のあるテーマの新聞記事をスクラップし、それをもとに2か月半かけて論文をしあげる取り組みだ。
そんなこんなの理由がつくから、論文執筆が間遠になる。論文がかけないから、いっそうほかの活動にうちこむ、という循環ができてしまった。妻が「あなたの逃避行動」とよぶテニスと美術鑑賞がそうだ。休日どころか、平日から早朝テニスに励んだし、奈良通いも頻繁になる。
東大寺戒壇院の広目天にはいくども向きあった。いまとちがって、だれでも戒壇の上までのぼれたころだ。美術への関心はやがて、地方仏、庭園、建築、絵画、陶芸、刀剣、茶道という具合にさまざまなジャンルに広がっていく。
教育実践研究の方向にはっきり舵をきるのが、1987年である。“政経レポート”の実践報告「帰国生徒受入れ校における社会科教育」を書き、「エデュケーション・ナウ」もはじまった。後者は、「政経演習」(3年生)のメンバーが、学校祭で演劇的プレゼンテーションを披露するプロジェクトで、テーマを変えながら15年つづくことになる。
わたしの気質と研究スタイルがマッチしたのだろう。それから25年、一つの課題がつぎの課題を生むという具合に、途切れることなく研究をつづけてきた。思想史研究でえた構想力が、いまの研究のバックボーンである。
わたしは始動に時間がかかる。反面、熱中しやすい性格だから、いったんエンジンがかかると、自分でもてあますくらいエネルギーがでる。遠くまでずんずん歩き、ついには道のないところにまで分け入っていく。知的冒険を好み、孤独をおそれないという言い方もできるが、妻はひと言「それをわがままというのよ」とブレーキをかける。
後日談になるが、やみくもにテニスにうちこんだことが、その後の研究をささえる体力づくりつながり、美術に沈潜したことが、ものの見方のトレーニングになった。どちらも迂回行動の結果であって、意図したものではない。ただ、そこに人生の面白さも感じる。