大塚久雄先生と静謐な空間(3)

大塚久雄先生の講義は、助手をつとめる梅津順一さんのディスカッション・クラスとセットになっている。しばらくして梅津さんから、聴講ついでに大塚さんのお世話をしてくれないか、と頼まれた。お世話とはいっても、講義で喉をうるおす水の準備と帰りのタクシーを手配するくらいのことだ。

ICUのケヤキ並木-バス停に通じる

講義のあとはいつも、研究室のソファでおしゃべりする。教育研究棟一階東側にある研究室は、床までとどくガラス窓である。そこから柔らかい日差しを通して、キャンパスのケヤキ並木がみえる。常連は、魚住昌良教授(ドイツ都市史)、葛西実教授(インド思想史)そして私である。

すんだばかりの講義のことからはじまって、学問研究の国際動向に話題がおよぶこともあれば、生い立ちや闘病体験など、ごく個人的なことがらのこともある。後者は、石崎津義男さんの『大塚久雄 人と学問』(みすず書房 2006年)で紹介されている数々のエピソードと重なる。

大塚さんは、34歳のときのバスの事故がもとで、一年半におよぶ治療の後1943年に左脚上腿部から切断という不運に見舞われる。戦後の1947年―49年にも、結核で3回におよぶ左肺の大手術をうけている。「近代欧州経済史序説 上巻」「宗教改革と近代社会」「近代化の人間的基礎」などの著作はこうした苦難のなかで出版されたものだ。

荒神橋から鴨川下流方向をのぞむ

幼いころから病弱だったわけではない。「子どものころは、悪かったんですよ」とご本人がよくいうくらい元気者だった。先年、楠井敏朗さんの『大塚久雄論』(日本経済評論社 2008年)におしえられ、京都御所の西にあった大塚家のあたりを起点にして、通学路を歩いてみた。地図でみると、同志社幼稚園から京都府立師範付属小「第二教室」は御所の北方向、旧制京都1中から旧制3高は御所の東方向にあたる。

旧武徳館(重文)は平安神宮の西側にある

とくに中学からの7年間は、それなりの距離を歩いている。新町通りの自宅から蛤御門をはいり、御所を横切って清和院御門からでる。そこから荒神橋をわたって東大路通りにいたるコース。柔道の稽古に通った武徳館も同じくらいの距離である。この世代の人の多くがそうであるように、若き日の大塚さんもまた「歩く人」だといってよい。病気とたたかった大塚さんが89歳の長寿をまっとうできたのは、こうした頑健さあってのことだろう。

内田義彦さんが、大塚さんには極端な体系志向の一方で極端な細部への凝集があり、その両者が微妙にバランスしている、という意味のことをいっている。(大塚久雄『生活の貧しさと心の貧しさ』みすず書房 1978年 324頁)。こうした個性的な仕事を支えているのは、合理的な生活態度がうんだ独自の研究スタイルである。

断片的なおしゃべりのなかに多くのヒントがあった。「これは」という本にぶつかると、繰り返しくりかえし暗記するほど読むということもそうだし、談たまたま執筆の仕方におよんだとき、推敲の大切さについて「わたしは書き上げた原稿をいったん引き出しにいれておくことにしています」と語ったこともそうである。

これは『生活の貧しさと心の貧しさ』(246頁)でも言及されていることだが、ベッドのなかで目が醒めかけて、うつらうつらしながら完全に醒めきらないでいる、その境目あたりに、日常の醒めた生活では思いもつかないような研究上のアイディアが浮かんでくることがある、などともきいた。

わたしにとっては、研究室での1時間余りのおしゃべりが特別に贅沢な時間で、ここでえられたものの大きさは、はかりしれない。

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