1988年の秋ごろ、遠山塾で講座をひらきませんか、という電話をもらった。『ひと』の編集代表だった遠山啓にちなむ公開講座をするのだという。それが名物編集者・浅川満さん(太郎次郎社社長)だった。小柄で丸顔、すこしくぐもった野太い声ではなす50代半ばの浅川さんは、いかにもエネルギッシュである。
帰国生の海外授業体験をリレートークで話してもらい、それをもとに本をつくるという企画がとんとん拍子ですすみ、あくる89年の1月から、9人の帰国生たちに、アメリカ、イギリス、西ドイツなど、7カ国の体験を語ってもらった。塾の担当は西野博之さん(現在:たまり場・主宰)だが、浅川さんもかかさず出席し熱心に発言する。
当時の太郎次郎社の場所は、本郷郵便局ともりかわ食堂のあいだの道をつきあたり、右に曲がってすぐのところである。瀟洒なビルの3階にある会場にむかっていると、スタッフを叱責する浅川さんの大音声が事務所の奥から階段室まで響いてくることがあった。
本づくりと並行して『ひと』にも何本か原稿をかいた。そんなこんなで、本郷通りの「呑喜」でおでんをご馳走になった。みちすがら、編集委員宅に乗り込んでとっくみあいの喧嘩をしたエピソードがでたかと思うと、つぎの話題では「ピヨコちゃんが」といったかわいらしい表現が自然に口をついてでてきたりするから、なんともいえない愛嬌がある。
氏岡真弓さんが、朝日新聞の「惜別」で「黒子の美学を裏打ちしたのは、納得しない原稿は決して載せない姿勢だ」(2008年9月19日付)と書いている。森毅の文章をボツにした話をわたしも聞いたが、あとで考えると、これは布石だったようだ。わたしのも1本ボツになった。原稿を届けたのにウンもスンもない。頼んでおいてそれはないだろうと思ったが、今となっては何をかいたかさえ覚えていないあり様だから、きっと大したことのない内容だったのだろう。
こうしてできた『海外帰国生-日本の教育への提案』(1990年)はわたしにとって2冊目の本である。造本は浅川さんの自信作。装丁が、杉浦康平事務所にいた谷川彰彦さん。オレンジ色で印刷された書名の周囲と編著者名が銀箔押しというモダンなもの。2色刷りでかくも変化にとむ色味がだせるのは、印刷技術の粋をこらしたからだという。この本で、獲得型授業論の骨格が固まった、という意味でも忘れがたい。
こんどは教育を論じる本を書いたらどうかといわれたが、当方にはその用意がなかった。論じることよりも授業実践をつくることの方に関心があったのだ。浅川さんとの出会いは、わたしにとって、新しい文章修業のはじまりをつげる合図でもあった。