月別アーカイブ: 10月 2012

太郎次郎社の浅川満さん

1988年の秋ごろ、遠山塾で講座をひらきませんか、という電話をもらった。『ひと』の編集代表だった遠山啓にちなむ公開講座をするのだという。それが名物編集者・浅川満さん(太郎次郎社社長)だった。小柄で丸顔、すこしくぐもった野太い声ではなす50代半ばの浅川さんは、いかにもエネルギッシュである。

帰国生の海外授業体験をリレートークで話してもらい、それをもとに本をつくるという企画がとんとん拍子ですすみ、あくる89年の1月から、9人の帰国生たちに、アメリカ、イギリス、西ドイツなど、7カ国の体験を語ってもらった。塾の担当は西野博之さん(現在:たまり場・主宰)だが、浅川さんもかかさず出席し熱心に発言する。

当時の太郎次郎社の場所は、本郷郵便局ともりかわ食堂のあいだの道をつきあたり、右に曲がってすぐのところである。瀟洒なビルの3階にある会場にむかっていると、スタッフを叱責する浅川さんの大音声が事務所の奥から階段室まで響いてくることがあった。

本づくりと並行して『ひと』にも何本か原稿をかいた。そんなこんなで、本郷通りの「呑喜」でおでんをご馳走になった。みちすがら、編集委員宅に乗り込んでとっくみあいの喧嘩をしたエピソードがでたかと思うと、つぎの話題では「ピヨコちゃんが」といったかわいらしい表現が自然に口をついてでてきたりするから、なんともいえない愛嬌がある。

氏岡真弓さんが、朝日新聞の「惜別」で「黒子の美学を裏打ちしたのは、納得しない原稿は決して載せない姿勢だ」(2008年9月19日付)と書いている。森毅の文章をボツにした話をわたしも聞いたが、あとで考えると、これは布石だったようだ。わたしのも1本ボツになった。原稿を届けたのにウンもスンもない。頼んでおいてそれはないだろうと思ったが、今となっては何をかいたかさえ覚えていないあり様だから、きっと大したことのない内容だったのだろう。

タイトルは浅川さんの発案

こうしてできた『海外帰国生-日本の教育への提案』(1990年)はわたしにとって2冊目の本である。造本は浅川さんの自信作。装丁が、杉浦康平事務所にいた谷川彰彦さん。オレンジ色で印刷された書名の周囲と編著者名が銀箔押しというモダンなもの。2色刷りでかくも変化にとむ色味がだせるのは、印刷技術の粋をこらしたからだという。この本で、獲得型授業論の骨格が固まった、という意味でも忘れがたい。

こんどは教育を論じる本を書いたらどうかといわれたが、当方にはその用意がなかった。論じることよりも授業実践をつくることの方に関心があったのだ。浅川さんとの出会いは、わたしにとって、新しい文章修業のはじまりをつげる合図でもあった。

 

保立道久氏の講演-神話世界と演劇的知

週末にきいたICUの先輩・保立道久先生(東京大学史料編纂所教授)の講演を反芻している。獲得研レクチャーシリーズの3回目。タイトルは「神話をどう語り、どう教えるか-地震・火山神話を中心に-」。東日本大震災のインパクトをうけて書かれた『歴史のなかの大地動乱-奈良・平安朝の地震と天皇』(岩波新書)の第4章「神話の神々から祟り神へ」がベースである。

保立道久さんは、神話をどう考え、どう教えるかは、日本の学術と文化にとって最大の問題のひとつだという。そのうえで三つのことを提案する。それは、①国家神道と神話・宗教を区別すること、②神話の自然観に照応しうる自然観をもつこと、③「神道」のもつ「忌み」の思想の復権をはかること、である。忌みは、9世紀が神話の中から抽出した思想であり、自然の意識的保存の装置だともいっている。

細部がまた面白い。「古事記」では、雷電、地震、噴火をつかさどる災害の神が三位一体であること。この時代が、たびかさなる地震、温暖化、パンデミックに遭遇しその困難を乗り越えた時代であること。王権内部の激しい抗争(「ハムレットが10回おこったようなもの」)のなかで敗北者が祟り神となり、また村落共同体が敗北者を祀ることで権力への抵抗の根拠にしたこと、などが重層的にかたられるからだ。

生家の「龍」 鶴見総持寺独住四世・石川素童の書

神が仏に帰依するかたちで本地垂迹説がうまれ、三位一体の自然神が「龍」というシンボルに形象化されて水神や疫病をくいつくす存在になっていく、という紹介もあった。

中村雄二郎が、コスモロジー、シンボリズム、パフォーマンスを統合する原理が演劇的知だといったが、今回の講演では日本神話のコスモロジーが重要な素材となっている。わたしの概念構成でいえば演劇的知の「表象」レベルの内実そのものにかかわってくる。

同時に、日本の自然認識の一部として神話をよみとき、自然科学による国土論とあわせて、国土イメージを形成するときの手がかりにするという保立さんの着想は、現代人の自然観・教養の問題としても重要である。村上陽一郎さんが、現代の教養を科学リテラシーとして提起していることにも通じるだろう。考えるべきことは多い。

『歴史のなかの大地動乱』は、地震学の最新成果と歴史学のそれがスパークすることで生まれたもので、いわば研究における文理融合の成果である。こうした研究の異文化交流は、保立さん自身の認識も変容させているようだ。たとえば著者紹介で、専攻を「日本中世史」ではなくあえて「歴史学」としているのは、学問としての歴史学の社会的役割にたいする内省からきたことではないか、と思えるからである。

備前の花入-妻の教訓

結婚してこのかた、食卓でもっとも活躍している器は、宝相華唐草が陽刻された紺色の中皿である。大学2年生のころ、吉祥寺・チェリナードの真ん中にあった焼物屋でみつけた。店先にうず高くつまれていたものだから、たしか1枚200円だったとおもう。

古民具にかこまれて育ったせいだろうか。柳宗悦の民芸論に共鳴し、20代から工芸品をよくみてあるいた。焼物も茶陶というより、まず日用雑器ということになる。ただ、理屈からはいっているぶん、使い勝手は二の次で、銅鑼鉢、粉引、三島手など、器形や技法を優先してしまう。使われないまま押し入れ直行というケースもしばしばだ。

なかでも備前焼への関心がながくつづいている。ご縁があって岡山県の学校を毎年のように訪問するからだ。岡山駅東口に桃太郎大通りと並行してはしる地味な商店街がある。その商店街をではずれたところにあった「陶芸センター・あさくら」をよくのぞいた。若手から老大家のものまで、幅広く品ぞろえされているから、新傾向の作品があるとつい手がでてしまう。

先日かぞえてみたら、まったく使われない備前焼が花器、酒器を中心に十数点ある。ただ、毎年登場する器もひとつだけある。耳付の花入である。

結婚したばかりのころ、岡山大学で学会があった。ついでに伊部に足をのばし、作家のSさんに電話して窯場と展示場をみせてもらった。どちらかといえば地味な作家だが、ろくろがうまく外連味のない作品をつくる。なぜか大ぶりの花入に目がとまった。正面は牡丹餅を配してつくりこんだ意匠、裏は降灰をたっぷりあびた自然な表情だから、片身代わりでも使える。

大きな荷物をかかえて家にもどると妻の顔色がかわった。いくらかでも余裕をもって出張させたいと、月末の乏しい家計をきりつめて工面したいわば内助の功の結晶を、能天気な夫がことごとく消尽したのだ。だいいち、狭い新居のどこにも、こんな壺をかざる空間などないのである。居心地悪げにしばらく勉強机に鎮座したあと、何年も押し入れの奥にしまいこまれた。

この事件から妻は「夫に余分な金をもたせてはいけない」という教訓を引き出したようだ。いまの家に引っ越してから、ようやく花入の出番がきた。松、菊、そして赤い実をつけた千両を投げ込んだ壺が、正月の床の間飾りにつかわれるようになったのだ。

ただ、年頭にあたって、妻が自分の教訓を確認するためにくだんの壺をつかっているのではないか、と秘かに疑っている。

井上ひさしの魅力

私はすこぶる文章が遅い。「てにをは」の使い方ひとつであれこれ迷うからだ。当然のこと、長い文章が苦手になる。このことは、井上ひさしや井伏鱒二の文章を好むことにも一脈通じるように思う。

むかしICUのパーティーで坂野正高教授(中国政治外交史)から、若いころずいぶん俳句にうちこんだが、五・七・五で世界をみるようになると、長い文章が書けなくなると感じてやめた、と聞いたことがある。学者というのはかくもストイックな存在なのかと感心もし、共鳴もしたが、いかんせん、志向性は簡単にはかわらないようだ。

生前の井上さんと会ったことはない。「切符がとれなければ、芝居はDVDでも仕方ない」という横着なファンの私は、「井上ひさし全芝居」(新潮社 全7巻)とエッセー集「井上ひさしコレクション」(岩波書店 全3冊)の飛ばし読みを楽しむ。井上さんの文章が好きなのは、彼のなかの「論じる人」よりも「つくる人」の方が根底にあるからだ。

手業でものを生みだす経験談に惹かれて、これまでいろんな職人さんと出会ってきたが、滔滔と語る人にかぎって腕のほうがいまひとつというケースが多い。手わざと語りのバランスはほんとうにむずかしい。ところが、『井上ひさしと141人の仲間たちの作文教室』(新潮文庫)など読むと、目次を眺めているだけで、文章がうまくなるような錯覚におちいるから不思議だ。

書き下ろし作『キネマの天地』の演出助手をした栗山民也さんが、襖のすきまから執筆の様子を目撃する。井上さんの遅筆に困り果てて、カンズメになっている新橋の古い和風旅館をたずねたときだ。

「私の位置からちょうど執筆中の作者の横顔がみえたのです。学生が使うような木製の机を部屋に運び入れ、裸電球にアルマイトの笠の卓上ランプを灯し、原稿用紙を高く積み上げその原稿用紙に15センチぐらいのところまで顔を近づけて、一字一字書いている。私は何も言えずただその光景に見入っていました。・・・必死に机に向かいながら、一つひとつの言葉がそのとき生まれ出る、まさに血の滲むようなその瞬間に出会い、私は涙がこぼれそうになりました。」(栗山民也『演出家の仕事』岩波新書 46-47頁)

古い和風旅館とアルマイトの笠ときては、いささか道具立てが揃いすぎている気もするが、鬼気迫る光景はうかんでくる。井伏鱒二が、「釣り人は自然にとけこむ姿が大事だ」といったらしい。その伝で言うと、作家・井上ひさしの内面をその風貌がうつしだしていた、ということだろう。

四面に山水楼閣人物図が彫ってある

1990年に北京で、何を思ったか「遅筆堂印」という石のハンコをつくってもらった。もちろん、使ったことはない。妻は「いくら形から入るあなただからといって、なにも遅筆をまねることはないでしょ」という。

教育における演劇的知・再考-日本教育方法学会48回大会

週末の2日間、日本教育方法学会・第48回大会(福井大学)に参加した。研究大会でラウンドテーブル「教育方法のトポロジー」をはじめて5年目。共同研究者が11人になり、いまや運営は阿吽の呼吸ですすんでいく。なによりディスカッションが刺激的だ。

キャンパスはえちぜん鉄道で10分ほどのところ

ことしは「教育における演劇的知・再考」というテーマで、基調提案をさせてもらった。「教育における演劇的知」はもともと2001年に提起した概念だが、その内実はいまもゆるやかに変容している。

ポイントの一つは、個人の選択的行動から社会的エートスまで、また学習スタイルから人間存在の特質までを見通す視座として、概念の射程をのばしてきたことである。表象、実践、分析という三層構造で、演劇的知を定義するようになったこともそうだ。この10年の模索を、そろそろ活字にしなければと考えている。

フリーディスカッションで広島大学の深澤広明先生が提出したプリント「演劇の知」(日本教育方法学会編『現代教育方法事典』所収)を読んでおどろいた。中村雄二郎-吉本均-竹内敏晴-そして私の主張を手際よくもりこみ、研究史をみごとに整理している。2004年に発表されていたと知って、不明をはじた。

福井市内-山の斜面に朝霧がかかる

自由研究発表での獲得研メンバーの挑戦がめざましい。武田富美子先生「コミュニケーションをはぐくむドラマの手法2-教科の授業として-」では、教師養成(国語、理科、英語)にドラマ技法を取り入れた多面的な事例が報告され、青木幸子先生「ドラマ手法を用いた古典教材のレッスン-「伊勢物語・筒井筒」-」では、大学生が古典の世界を身近にとらえていくプロセスがダイナミックに語られた。

ホテル横の中央公園がマラソンの出発地

今回は、たまたま学会の開催期間と、桑田佳祐のコンサートや福井マラソンが重なり、ホテルの確保がたいへんだった。初参加の小菅望美さんなどは北陸トンネルをこえて敦賀から通ったというから、思い出深い大会というほかない。

大塚久雄先生と静謐な空間(3)

大塚久雄先生の講義は、助手をつとめる梅津順一さんのディスカッション・クラスとセットになっている。しばらくして梅津さんから、聴講ついでに大塚さんのお世話をしてくれないか、と頼まれた。お世話とはいっても、講義で喉をうるおす水の準備と帰りのタクシーを手配するくらいのことだ。

ICUのケヤキ並木-バス停に通じる

講義のあとはいつも、研究室のソファでおしゃべりする。教育研究棟一階東側にある研究室は、床までとどくガラス窓である。そこから柔らかい日差しを通して、キャンパスのケヤキ並木がみえる。常連は、魚住昌良教授(ドイツ都市史)、葛西実教授(インド思想史)そして私である。

すんだばかりの講義のことからはじまって、学問研究の国際動向に話題がおよぶこともあれば、生い立ちや闘病体験など、ごく個人的なことがらのこともある。後者は、石崎津義男さんの『大塚久雄 人と学問』(みすず書房 2006年)で紹介されている数々のエピソードと重なる。

大塚さんは、34歳のときのバスの事故がもとで、一年半におよぶ治療の後1943年に左脚上腿部から切断という不運に見舞われる。戦後の1947年―49年にも、結核で3回におよぶ左肺の大手術をうけている。「近代欧州経済史序説 上巻」「宗教改革と近代社会」「近代化の人間的基礎」などの著作はこうした苦難のなかで出版されたものだ。

荒神橋から鴨川下流方向をのぞむ

幼いころから病弱だったわけではない。「子どものころは、悪かったんですよ」とご本人がよくいうくらい元気者だった。先年、楠井敏朗さんの『大塚久雄論』(日本経済評論社 2008年)におしえられ、京都御所の西にあった大塚家のあたりを起点にして、通学路を歩いてみた。地図でみると、同志社幼稚園から京都府立師範付属小「第二教室」は御所の北方向、旧制京都1中から旧制3高は御所の東方向にあたる。

旧武徳館(重文)は平安神宮の西側にある

とくに中学からの7年間は、それなりの距離を歩いている。新町通りの自宅から蛤御門をはいり、御所を横切って清和院御門からでる。そこから荒神橋をわたって東大路通りにいたるコース。柔道の稽古に通った武徳館も同じくらいの距離である。この世代の人の多くがそうであるように、若き日の大塚さんもまた「歩く人」だといってよい。病気とたたかった大塚さんが89歳の長寿をまっとうできたのは、こうした頑健さあってのことだろう。

内田義彦さんが、大塚さんには極端な体系志向の一方で極端な細部への凝集があり、その両者が微妙にバランスしている、という意味のことをいっている。(大塚久雄『生活の貧しさと心の貧しさ』みすず書房 1978年 324頁)。こうした個性的な仕事を支えているのは、合理的な生活態度がうんだ独自の研究スタイルである。

断片的なおしゃべりのなかに多くのヒントがあった。「これは」という本にぶつかると、繰り返しくりかえし暗記するほど読むということもそうだし、談たまたま執筆の仕方におよんだとき、推敲の大切さについて「わたしは書き上げた原稿をいったん引き出しにいれておくことにしています」と語ったこともそうである。

これは『生活の貧しさと心の貧しさ』(246頁)でも言及されていることだが、ベッドのなかで目が醒めかけて、うつらうつらしながら完全に醒めきらないでいる、その境目あたりに、日常の醒めた生活では思いもつかないような研究上のアイディアが浮かんでくることがある、などともきいた。

わたしにとっては、研究室での1時間余りのおしゃべりが特別に贅沢な時間で、ここでえられたものの大きさは、はかりしれない。

若者の海外体験

「第33回海外子女文芸作品コンクール」(主催:海外子女教育振興財団)の最終審査をおえた。小中学生の作品審査にかかわるようになって13年、いまや秋の恒例行事である。応募作品は、短歌、俳句、詩、作文の4分野で総計3万7千点あまり、このうちわたしが関係する作文の部は4219点だ。

2次審査まで通過した作品のなかから特選作品14 点をえらぶ。むずかしい仕事だが、生きいきとした海外体験にふれるまたとない機会である。異文化にとびこむ不安、ことばを学ぶ苦労、家族の絆、友情、お世話になった教師、学校生活、現地の自然・社会・文化、日本へのおもいなど、いろいろなテーマが登場する。

パリ日本人学校の日本文化紹介コーナー

獲得型授業論のベースのひとつが帰国生の海外教育体験だから、若者たちの体験にはとくべつ思い入れがある。それに、1980年からこんにちまで、帰国生・海外生の海外体験と30年以上向き合っている。そのことからどんな影響をうけたのか、朝日新聞のコラム「あめ はれ くもり」の連載2回目に書いたことがある。(コラムは6回連載 以下:改行を一部変更)

「高校教師をしていた一九八〇年の夏、期末テストの答案用紙をにらんで思わずうなった。欄外に「なぜ先生は授業にもっと生徒を参加させないんですか?」と帰国生の一人が書いてきたのだ。本腰を入れて調べると世界の驚くほど多様な参加形態が見えてきた。「海外帰国生」(90年)でそうした事例を紹介し、知識注入型から獲得型へ日本の教育を徐々にシフトさせるべきだと提案した。

獲得型授業は私の造語だが「自学」と「参加・表現」という二つの側面を含む概念である。学習者が種々のアクティビティ(活動)を通して知識だけでなく学び方そのものも習得していく。

「公民科教育法」(60名履修)では学期始めにモデル・プレゼンテーションの有志を10人募る。2チームが授業と平行して準備を進め、8週間後にドラマ仕立ての発表を披露するのだ。テーマ選び、調査、情報の編集、脚本作り、発表本番(30分)と細かくステップを踏んで完成させる。「生徒になって」発表しながら同時に獲得型授業の指導方法も学ぶ入れ子構造のプログラムだ。

今年「ターミナルケア」と「ネットいじめ」に挑戦した学生はもちろん制作過程を間近で見守った学生からも「教師になったら取り入れてみたい」という声が多い。

生徒の書いた一行の文章が私を政治思想の研究から教育方法の研究に導いた。ずいぶん離れた所まできたという思いとどちらも参加民主主義の根っこを探る研究だという思いの両方が私の中にある。」(「私を変えた生徒の一文」2009年9月2日付)

コンクールの入選作品は『地球に学ぶ』第1集~32集として刊行されていて、こちらは日本の国際化と異文化接触の変容について考えるための貴重な資料になっている。海外子女教育振興財団のHPでコンクールの様子を知ることができる。(URL:http://www.joes.or.jp/bungei/index.html