M.ウェーバー『職業としての学問』を読む

シャルルドゴール空港からエディンバラへむかう

尾高邦雄訳の『職業としての学問』(岩波文庫)をいくどとなく読んだが、愛読書という表現はあたらない。ICU高校にいたころ、3年生対象の講読クラスで、20年近く、テキストにしていたものだからだ。

社会科学系の学部・学科に進学がきまった生徒のなかの希望者を対象に、卒業式が近づく1月から2月にかけて読む。多い年で45人ほどの生徒が、ラウンドテーブルをつくった。全員が毎回レジュメを準備するのは、ICUで佐竹さんがやっていた方式である。

このクラスをはじめたばかりのころ、欲張ってルソーの『学問芸術論』や福沢諭吉の『学問のすゝめ』などとセットにして読んだが、いつ頃からだったか、この本の1ページ1ページをじっくりたどるやり方にかえた。

ヴェーバー最晩年の講演とあって、学問の職分、主知主義的合理化、目的合理主義と価値合理主義、知性の犠牲、明確さなどの重要な概念が、たった66ページの本文にびっしり詰まっている。それだけでなく、語り口そのものに不思議な熱がある。読みとおすには、戦間期ドイツの政治状況はもちろん欧米の精神的伝統について一通りの知識が必要だから、けっしてやさしい本ではない。

ヴェーバー自身が「学問上の諸問題を、頭はあるが未訓練の人々に理解させ、かつこれらの問題をみずから考えていくように解説するということは、おそらくもっとも困難な課題であろう」(20頁)といっているが、このゼミに関する限り、途中で脱落したものがいたという記憶がないから、生徒たちはよくついてきたと思う。

この本には万華鏡のような輝きがあり、読み返すたびに何かしら新しい発見がある。だから、教えるために読んでいたはずの私自身が、知らず知らずのうちに本の影響を受けてしまっている。それがわかるのは、何かのおりに本文の一節がふっと頭をよぎるからである。例えば「こんにち、究極かつもっとも崇高なさまざまな価値は、ことごとく公の舞台から引きしりぞき、あるいは神秘的な生活の隠された世界のなかに、あるいは人々の直接的な交わりにおける人間愛のなかに、その姿を没しさっている。これは、われわれの…時代の宿命である」(71-72頁)といったようなことばである。読書とは、げに恐ろしいものだ。

パリからエディンバラに移動する小さな飛行機のなかで、眼下にひろがる真っ白な雲の海をみながら、きいろく変色した『職業としての学問』をパラパラめくっていると、隣の席では、真っ赤なTシャツに黒ぶちメガネの若者が、ふきだしにフランス語のせりふがはいった高橋留美子の漫画を、携帯型タブレットで、一心不乱によんでいた。

雲海のしたにエディンバラの町があらわれる

コメントは停止中です。