日別アーカイブ: 2012/08/31

エディンバラ・フェスティバル

シャルルドゴール空港から2時間でエディンバラについた。33年ぶりだが、意外なことに、町の印象が若いころうけたのとそれほど違わない。

ホテルの窓から市街をのぞむ

この30年でいちばん変ったのはどこかとご当地生まれのタクシー・ドライバーにきいたら、初老の彼が少し考えてから、大きなビルが増えたことではないか、といった。「ほかのまちのことは知らないが、50万人はほどよい規模だし、空港に送迎するお客たちもいいまちだというからきっとそうなんだと思う」と続ける。そうきいて、新市街にあるホテルの窓から周辺を一望してみるが、いわゆる高い建物というのはみあたらない。

寒さも相変わらずで、街ゆく人はおしなべて黒っぽい防寒具をきている。前回は、エディンバラ大学の寮でヒーターをつけて眠ったが、今回も冷たい雨続きである。

旧市街を歩いていたら、雷鳴とともに雹のまじった豪雨がきた。雨宿りした店先のトラックの屋根が真っ白に水しぶきをあげる。荷台では、坊主頭にジャンパーの若者がビール樽をうごかしながら「これがスコットランドだ」とこちらにむかって叫ぶ。10分ほどたつと、嘘のような小雨になった。

ホテルでも、大学でも、パブでも人々は飾り気なく親切である。目立って変ったのは、中国の観光客と中国語のガイド・ツアーがふえたことだろうか。

雨のなかでも入場券をもとめる列が

さすがは数十万人をあつめるエディンバラ・フェスティバル。無料で配布している「フリンジ」の冊子が300ページ(A4判)あり、そのうち140ページ分がコメディーだ。

私は「インターナショナル・フェスティバル」の冊子で、「ジュリアード・ダンス」を選び、それをエディンバラ・プレイハウスでみた。ニューヨークからきた20人ほどのジュリアードの学生が、よく訓練された切れの良い動きをみせる。

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めだつのは年配者わけても女性の観客である。前列にオックスフォードの学生がいて、彼の場合はいかにも両親につきあっています、というクールな雰囲気をただよわせている。この日の観客は、おそらくロンドンの劇場にストレート・プレイをみにくる観客の年齢層にちかいはずだが、芝居のときとは反応がちがい、会場は熱狂の渦である。

週があけたら、フェスティバルは一気に片付けモードになった。断続的な雨のなかでおこなわれる作業に“祭りのあと”の風情がある。街角のフェンスや壁に整然と貼られたポスターが撤去され、ジョージアン朝の住宅が並ぶシャルロッテ・スクウェア、エディンバラ大学の建物がかこむジョージ・スクウェアの仮設テントも解体された。

列車でロンドンのいつもの宿にくるのに5時間以上かかった。やはり遠いまちである。それでもエディンバラの印象が33年前とさして変わらないのは、町そのものの変化よりも、この間の私自身の内面の変化の方がずっと大きかったからではないか、と思えてくる。

M.ウェーバー『職業としての学問』を読む

シャルルドゴール空港からエディンバラへむかう

尾高邦雄訳の『職業としての学問』(岩波文庫)をいくどとなく読んだが、愛読書という表現はあたらない。ICU高校にいたころ、3年生対象の講読クラスで、20年近く、テキストにしていたものだからだ。

社会科学系の学部・学科に進学がきまった生徒のなかの希望者を対象に、卒業式が近づく1月から2月にかけて読む。多い年で45人ほどの生徒が、ラウンドテーブルをつくった。全員が毎回レジュメを準備するのは、ICUで佐竹さんがやっていた方式である。

このクラスをはじめたばかりのころ、欲張ってルソーの『学問芸術論』や福沢諭吉の『学問のすゝめ』などとセットにして読んだが、いつ頃からだったか、この本の1ページ1ページをじっくりたどるやり方にかえた。

ヴェーバー最晩年の講演とあって、学問の職分、主知主義的合理化、目的合理主義と価値合理主義、知性の犠牲、明確さなどの重要な概念が、たった66ページの本文にびっしり詰まっている。それだけでなく、語り口そのものに不思議な熱がある。読みとおすには、戦間期ドイツの政治状況はもちろん欧米の精神的伝統について一通りの知識が必要だから、けっしてやさしい本ではない。

ヴェーバー自身が「学問上の諸問題を、頭はあるが未訓練の人々に理解させ、かつこれらの問題をみずから考えていくように解説するということは、おそらくもっとも困難な課題であろう」(20頁)といっているが、このゼミに関する限り、途中で脱落したものがいたという記憶がないから、生徒たちはよくついてきたと思う。

この本には万華鏡のような輝きがあり、読み返すたびに何かしら新しい発見がある。だから、教えるために読んでいたはずの私自身が、知らず知らずのうちに本の影響を受けてしまっている。それがわかるのは、何かのおりに本文の一節がふっと頭をよぎるからである。例えば「こんにち、究極かつもっとも崇高なさまざまな価値は、ことごとく公の舞台から引きしりぞき、あるいは神秘的な生活の隠された世界のなかに、あるいは人々の直接的な交わりにおける人間愛のなかに、その姿を没しさっている。これは、われわれの…時代の宿命である」(71-72頁)といったようなことばである。読書とは、げに恐ろしいものだ。

パリからエディンバラに移動する小さな飛行機のなかで、眼下にひろがる真っ白な雲の海をみながら、きいろく変色した『職業としての学問』をパラパラめくっていると、隣の席では、真っ赤なTシャツに黒ぶちメガネの若者が、ふきだしにフランス語のせりふがはいった高橋留美子の漫画を、携帯型タブレットで、一心不乱によんでいた。

雲海のしたにエディンバラの町があらわれる