東京大学の研究生

学部をでた1975年に、武田清子先生の紹介で東大教養学科(駒場)の研究生にしてもらった。この年にうけた駒場と本郷の授業が、ICUでの経験とは別の意味で異文化体験だった。

研究指導の小林善彦教授(フランス文学)は、『ルソーとその時代―文学的思想史の試み』(1973年 大修館書店)の著者にして、白水社版「ルソー全集」の監訳者である。小林さんの講読ゼミは、私が経験した唯一の文学系ゼミだ。10人にみたない学生を相手に「告白」の原文を少しずつ読んで解説し、リズミカルな文体の美しさまで味わう。

ゼミの醍醐味は、小林さんが「孤独な散歩者の夢想」の第5の散歩について書いた以下の文章に照応している。「美しい自然描写、すなわち湖とそれをとりまく自然のなかに没入し、寄せては返す水面の波に耳を傾け、湖水の面に世のさまの移り行く姿を見ては、恍惚のうちに幸福感にひたるルソーの文章は、その筆舌につくし難い韻律の響きとともに、彼の全著作の中でもまさに圧巻をなしている」。(同前書290頁)この文章が象徴するのは、思想が生まれてくる源泉を、思想家個人の肌合いや気質まで分け入って解き明かす小林さんの学風である。

駒場のゼミと並行して、本郷の福田歓一教授の「政治学史」を聴講した。いわずと知れた『近代政治原理成立史序説』(岩波書店)の著者である。秋田高校の先輩・田口富久治教授(明治大学→名古屋大学)の紹介で法学部の研究室をたずねた。一通り挨拶を終えると、佐々木毅助教授(東大総長)の研究室に回るように、といわれた。やはり秋田高校の先輩で『マキャベリの政治思想』を著した気鋭の思想史家である。佐々木さんは最先端の研究にふれる必要を「単行本になったものは研究のまとめだから、研究論文レベルのものを読んだほうがいい」といった。

法学部の絨毯じきの研究室もそうだが、大教室の講義も重厚でものものしい。受講生の数がけた違いに多いだけでなく、ICUのカジュアルな雰囲気になれた目でみると、まるで学術講演会の趣である。南原繁氏の研究のリアリティを「切れば血のでるような思索」と表現したのが耳に残った。20年ほどあと、本郷の教育学部で非常勤講師をするようになって、やはり法学部の大教室のものものしさを特別なものと感じた。

福田先生は遠い存在だったが、ひょんなことで少し印象が変わった。ある日、日本民藝館から駒場東大前駅に向かっていると、散歩中の福田さんと一緒になった。緊張気味に並んで歩く私に、長身痩躯の先生が、あの独特の高いトーンで、オリジナルな研究のための準備にふれて「ルソーの作品では「エミール」が一番大切です」といった。広い視野で研究することをすすめてくれたのだ。

研究生として、性格の異なる2つの授業を並行して受けられたのは幸運だった。同じルソーの論理展開を説明するにしても、こんなに扱われる角度が違うのか、と驚かされると同時に、思想家の全体像を把握することの大切さ、そして思想史研究がなみなみならぬ力仕事だということをあらためて知った。

翌年、ICUに戻ることにした。ICUの大学院行政学研究科(GSPA)に博士課程ができることになったのだ。大学院進学と同時に、錦城高校で倫理・政経を教える多忙な生活が始まったから、私にとって研究生の1年間は、人生の休止符のような年だった。

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