多文化社会としての学生寮

異文化体験として大きかったのは、ICUでの寮生活である。大学紛争の余波で閉鎖されていた学生寮が、1年生の秋に再開され、私は第1男子寮に入ることになった。3つの男子寮にはそれぞれカラーがある。第1男子寮は“アカデミック寮”と呼ばれるだけあって、たしかに勉強家が多かった。

食堂にむかう―右手が教会

木造2階建ての第1男子寮は、教会堂の真南にたっている。寮生は30人ほど。4人部屋が基本である。受付、公共スペースの掃除などは当番制で、定期的に寮会を開いて運営方針を話し合う。ICUの寮は一種の自治寮といってよい。

教会の南面は当時のまま

1年生から2年生にかけて同室だったのは、のちにメキシコの壁画芸術を研究することになる加藤薫さん(神奈川大学教授)、インドの帰国生でパイロットになった岡田修一さん(日本航空機長)、ヒロ・ヤマガタやリャドの紹介者として知られる鈴木洋樹さん(ガレリアプロバ社長)たちである。それまで私の周囲にはいないタイプ、ともて自由な発想をする先輩たちだ。もちろん先輩風を吹かす人などいないから、部屋替えのつど価値観の違う人とルームメートになるのが楽しかった。

平屋建ての食堂は大きな複合施設に変貌

カリフォルニア大学サンタ・バーバラ校の留学生フレデリック・ショットさん(在米)は、身長が2メートル近くある気立ての優しい美男子で、無類のマンガ好きである。肩までとどく金髪に長めのもみあげ、そしてジーンズの上下とくれば、これはもうフラワー・チルドレンを絵に描いたようなファッションだ。

寮から目と鼻の先にある大学食堂で夕食をとったあと、お母さんの手作りクッキーが入ったブリキ缶を自室の本棚から下ろし、大切に一枚たべる、それがフレッドの日課である。

フレッドに日本人寮生のガールフレンドができたとき、彼女の誕生日に歌をプレゼントするという素敵なプランが、彼のあたまにひらめいた。恋人の窓辺でセレナーデを奏でるあのゆかしい風習にならおうというのだ。しかし、いかんせん一人でいく勇気がないので、私にも一緒にいってくれという。

クリスマスのころ、手に手にろうそくをもった一団が、「諸人こぞりて」などの曲を歌ってキャンパスをまわる。このキャロリングを、女子寮では、部屋の明かりをおとした寮生たちがカーテンのむこうで静かにまちうけるのが習慣だった。

われわれ二人はまず、芝生と林の境界にあるサツキの植え込みに半分だけ身を隠すことにした。こう書くと、ほとんど「シラノ」のような設定に思われるかもしれないが、歌うのはフレッドで、私はあくまで立会人である。フレッドが窓をみあげて控えめに歌いはじめると、2階の窓辺にガールフレンドの姿がかすかにみえた。大成功。こうしてぶじに使命をはたし、凸凹コンビは意気揚々と第1男子寮に引き上げた。

その後、マンガ好きの道をきわめたフレッドは、コミックを海外に紹介する評論家として活躍し、手塚治虫文化賞(朝日新聞社)を受賞したり日本政府から勲章をもらったりしている。

実現こそしなかったが、もともとICUは全寮主義を標榜していた。1952年に文部省に提出した「大学設置認可申請書」の「ICUの目的と使命」には、「八 全寮主義を原則とし、教授と学生との民主的共同生活により、人格の陶冶及び学問と生活との一致をはかる。」とある。(武田清子『未来をきり拓く大学―国際基督教大学五十年の理念と軌跡―』2000年 国際基督教大学出版局 84頁参照)

寮の建物もすっかり変わっている

私の経験でいえば、学生寮はICUの多文化性を象徴する空間である。それぞれの学生が互いの生き方に干渉せず、適度な距離感を保って生活している。それが居心地よく感じられ、結局4年生まで学生寮で暮らすことになった。

ICUを卒業した後、ロンドン大学、エディンバラ大学、カナダ・アルバータ大学などの学生寮に泊まる機会があったが、いつも寮生だったころの記憶がよみがえってくるのだった。

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