日別アーカイブ: 2012/06/19

大塚久雄先生と静謐な空間 (1)

1970年の春に、リベラル・アーツの教育を掲げるICUに入学した。指導教授の武田清子先生は、リベラル・アーツの特質を「自分自身から解き放たれて、他者・多文化と出会うこと」と定義している。

いまICUの学年定員は600名ほどだが、私の入学した18期でいうと、4月入学生は126名。新宿や渋谷の街中ですれちがうと、お互いに気づいてしまうような規模だった。

理学館(N棟)の外観は昔のまま

4月23日に入学オリエンテーションの一環で記念講演があった。演題は「科学における専門化と総合化」、講師は欧州経済史の大塚久雄先生である。キャンパスの北西にある理学館の階段教室に登場した大塚さんは、羽織袴の正装である。ICUという洋風の響きのある大学で和服姿というのも不思議だったが、そのうえ両手に松葉杖を握っている。

1968年に東大経済学部を退官した大塚さんは、翌年、集大成となる『大塚久雄著作集』(岩波書店 全10巻)を刊行、この春ICUに着任したばかりだった。武田清子先生による講師紹介のあと、なにもないテーブルにすわって、ひとあたり会場をみわたしてから、ゆったりしたリズムで話しはじめた。

N棟の入り口

穏やかで凛とした語り口にひきこまれ、会場は水をうったように静かなのだが、なにせ抽象度が高い。これから話すことは、諸君にはまだよく分からないかも知れないが、やがて分かるときがくるだろう、と前置きした通りの展開になった。

おおよそこんな話だ。ひと口に専門化といっても、専門化には理論的専門化と実践的専門化がある。これまで後者のほうが一段低くみられる傾向にあったが、次第に前面にでるようになった。いまではたんなる専門化をこえた総合化、また理論的知識の総合ということが避けがたい流れである。一方で、実り豊かな総合のためには、専門化もどんどん進める必要がある。

科学研究の背後には一定の思想が控えている。しかし、思想や宗教のかたちで現れる価値自体は科学の対象となりえない。だから“科学的”という語を聞いて文句なしに頭を下げるのではなく、科学の名で説かれる因果連関がどのくらい可能であるのか、それを支えている法則的知識そのものを用いて検証する価値批判の方法(M.ヴェーバー)を採用する必要がある。そうした科学の立場にたつ物の見方や考え方の基本を学ぶのに、大学は相対的に適した場所である。

階段教室の中段で聴いたこの講演が、私の体験した最初の学術講演である。のちに小さなパンフレットになって学生に配布されたから、何度か読み返してみた。いまは『社会科学と信仰と』(みすず書房、1994年刊)にも収録されている。興味深い事例がふんだんにでてくるのが大塚さんの講義の特徴だが、このときの講演は、18歳の若者相手にしては、エッセンスの方がやや前にでているようにみえる。当時は気づかなかったが、この講演はリベラル・アーツにむかう方法意識を鮮明にうちだしたものだと考えるようになった。

これが大塚先生との最初の出会いということになる。私はとてもうかつな人間で、生き方もふくめて、大塚さんの影響を強く感じるようになるのは、この日から10年以上たってからである。

ICUへの進学

大学本館

高校3年生のときの悩みは、大学の専攻を文学と政治学のどちらにするか、ということだった。まだ何ものでもない自分が何かになるために、まずは社会の構造そのものを知る必要があるというはなはだ抽象的な結論をえて、私は政治学を選ぶことにした。

本館前から教会方向をみる

1学期のある日、「蛍雪時代」をかこんで雑談した。教室にいた5,6人は私も含めてみな国立大学志望だったが、ページをパラパラめくるうち、なぜか国際基督教大学(ICU)という名に目がとまった。教養学部だけの単科大学、試験科目名が通常の「数学」や「歴史」でなく、自然科学、社会科学など大きなくくりになっている。私立大学には珍しく2次試験まであって、面接もやるらしい。留学生の比率が高い国際的な大学というのも気になった。

泰山荘の庭

そんなことを話していると、たまたま顔をだした担任の山岡雄平先生(国語)が、ドアのあたりから「ICUはいい大学だよ」と一言いった。前年度、いっしょに合唱をしていた菊池壮蔵さん(福島大学教授)など、少なくとも3人が秋田高校からICUに進学しているから、なにか情報があったのかもしれない。

泰山荘の門-学生時代の散歩コースになった

この年の夏、久里浜にいた優子叔母のところを拠点にして都内の大学を見て歩いた。都心の大学は、新聞社の写真部員だった弘学叔父もつきあってくれたが、三鷹にあるICUへは1人でいった。

正門から教会堂まで、八百メートルほどの桜並木(マクリーン通り)がまっすぐ続く。教会前のロータリーのほどよく手入れされた花壇を右折して本館にいくと、建物の前に広々とした芝生が広がっている。一斉休暇中のせいか、芝生で語らう外国人学生のほかに人影がみあたらない。

静かなキャンパスを時計と反対廻りに一周してみた。木々のあいだにゴルフコース、洋風の一戸建て住宅、学生寮、和風庭園などが点在するばかりで、大きな建物がほとんどない。

東京にある大学のイメージとはかけ離れた、まるで別世界のようなキャンパスだった。境界は判然としないものの、四方を雑木林に囲まれた広大な校地であることは分かる。林間の道をぬけグランド沿いの道にでると、そこだけぽっかり日盛りの大きな青空が広がっていた。

グラウンド越しに体育館をみる

大学紛争の真っ最中だとはつゆ知らなかったが、キャンパスを出るときには「ここを受験しよう」と心に決めていた。

近所で「かぶらの跡取りが牧師の学校に入ったそうだ」と噂されるほど、地方でICUの存在が知られていない時代のことである。

その後の33年間、このキャンパスが私の学びと生活の場になった。