日別アーカイブ: 2012/06/15

佐竹寛先生とゼミナール

私を西洋政治思想史の研究に導いてくれたのは佐竹寛先生(モンテスキュー研究 中央大学名誉教授)である。先生が亡くなってから、早いもので1年がたとうとしている。先生がICUで土曜日の午前に開講しいていた「西洋政治思想史Ⅰ.Ⅱ.Ⅲ」(学部の専門科目)は、プラトン、マキャベリ、ホッブズ、ロック、ルソー、J.S.ミル、エンゲルスなどの古典を読むゼミナール形式の授業だ。

私は、ちょっと背伸びして2年生のとき受講をはじめた。1971年はまだ大学紛争の余燼がくすぶっていたころで、20人にみたない受講者のなかに留年組が幾人もいた。この授業では、報告者でなくてもブック・レポートをだすことになっている。仕事の遅い私は半徹夜でレポートを仕上げ、本館前の芝生を横切って、第1男子寮から森閑とした教室までの道を歩くのがつねだった。

新学期がはじまったばかりのころ、課題レポートを持たずに教室にきた上級生がいた。「先生はどうするのだろう。」と思っていると、ちょっと間をおいて、「あなたはこの教室にいる資格がないのででていってください。」と静かに、しかし断固とした調子で通告した。プリンストン大学に留学したとき、ゼミナールの教育効果に目を開かされたということだが、2度目の海外留学をへて、それは先生の確信になっていたようである。

こう書くと、いかめしい雰囲気の教師をイメージするかもしれない。たしかに、40代後半の先生は颯爽としていた。ただ、いかめしいというよりは、笑顔に愛嬌のある温厚な紳士という言い方のほうがあたっている。サイドベンツの上着、腰を軸にしてすっと立つ様子は、どこかオペラ歌手の立ち姿を思わせる。

佐竹先生は、陸軍幼年学校、陸軍士官学校をでた職業軍人として23歳のときに終戦を迎え、その年に父君を亡くしている。さまざまな肉体労働で一家の生活を支え、「本当のことを知りたい」と改めて中央大学にはいったときには28歳になっていた。

後年、中央大学の本務のほか、市川房枝さんの婦選会館の市民講座を39年間担当し、多くの市民運動家、地方議員を育てている。驚くべき持続力である。ICUの授業、中央大学のゼミ合宿、婦選会館の講座、どこでも聞き役に徹しているように見えたが、そうしたスタイルは、民主主義にたいする持続する志と表裏の関係だったのではないか、と思えてくる。

先生の来歴については、中村孝文さん(武蔵野大学教授)が編んだ「佐竹寛先生 年譜・主要著作目録」がたくさんのことを教えてくれる。というのも、先生自身が個人史について多くを語らず、随想の類も残さなかったからである。陰影にとんだ人生の歩みを語り伝えることの困難を前にして、生(なま)のかたちで体験談を語ることへのある種の断念があったのではないか、というのが私の想像である。

ただ、先生がいつになく雄弁に語ったことがある。1990年の秋、熊本から天草半島まで泊りがけでドライブしたときだ。佐竹先生、中村さん、私の気のおけない3人旅である。旅の途次、戦後に遭遇した価値観の転換、学問を志したいきさつ、留学中にご母堂を亡くして経験した精神的危機などについて、はじめてゆっくりと聞いた。旅のゴールは崎津天主堂で、海がすぐ近くまでせまる畳敷きの小さな教会である。その祭壇をみつめながら「私はカソリックの信仰をもっているのです。」とうちあけられたときは、きっとこの慎ましい空間が、先生の口を開かせたのだろうと感じた。

私は、佐竹先生から、古典を介して自分の人生と向き合う仕方を、また学生の発言をまってかれらの良さをひきだすゼミ運営のスタイルを学んだといえる。