川に親しんで育ったせいで、清流というものに無条件の憧れがある。私が親しんだのは、奥羽山脈から八郎潟東岸にそそぐ総延長20キロの川、その中流域のあたりだ。中学校にあがるまで、春秋はフナ釣り、夏は手づかみのオイカワ(ヤマベ)漁に熱中した。泳ぎもここで自然に覚えた。
八郎潟東岸は広大な平野だから、いくつも川が流れている。父の実家がある隣町の川はもっと大きい。上流が映画「釣りキチ三平」のロケ地になるほどの清流だから、父の子ども時代は素潜りで魚を突いたものらしい。
私にとって忘れがたいのは手づかみの漁である。生家から南に緩い坂をくだり300メートルほど田圃道をいくと木橋があり、欄干ごしに、浅瀬を泳ぐ魚の群れがキラキラ銀色の光をかがやかせているのが見える。ずいぶん大きな川に思えたが、川幅はせいぜい20メートルあったかどうかだろう。上流はイワナのすむ清流で水温も低いが、このあたりは水温もさほど低くないうえに水量も下流域ほど多くないから、水遊びに最適の条件をそなえている。
岸に服を脱ぎすて、膝から腰のあたりまでくる水をこいで川の中を進む。オイカワは岩の下流側のくぼみに身を隠す性質がある。そこでポイントに近づくと、あたりをつけて両腕をソーッと抱え込むように差し入れ、指先に神経を集中させてつかまえる。顔は水の上にあって手元が見えない。だから指先の感覚だけが頼りの、きわめて原始的な漁である。オイカワのメスはアユのような地味な色だが、オスは体長も大きく婚姻色は虹のように美しい。
鬱蒼とした緑におおわれた淀み、堰堤を下った流れが水しぶきを上げる場所、浅瀬の大きな石など、ポイントをたどりながら川を下っていく。とらえた獲物は鰓(えら)から口に柳の枝を通してもち運ぶ。もう一つ下流の橋までいく間に、どうかすると枝がいっぱいになるほどオイカワが獲れることがあった。
いちどだけ鯰(なまず)をつかまえたことがある。場所は木橋のすこし上(かみ)だ。大雨のせいで湾曲部にある大木の地面がえぐられ、細かい根が水中で簾のように絡まりあっている。ここを手探りしているうちに、はずみで両手に余るほど太い胴がすっぽり手に収まった。その柔らかい感触にはっとしたが、こころを落ち着かせ、相手が暴れないように静かにからだに引き寄せる。そして胸のあたりに抱え込むがはやいか、一目散に岸をかけのぼった。草のうえに獲物を放りだすと、立派なひげの鯰が尾を左右にふって草の上をはねた。そのときの興奮が、両手のぬるぬるした感触とともにいまも蘇ってくる。