月別アーカイブ: 5月 2012

薬師寺の薬師三尊

これも高校2年生のときの話。週末、秋田市内の下宿から自宅にもどる奥羽線の列車で、数学のT先生と一緒になった。真ん中わけの髪に黒縁メガネ、やせ形の礼儀正しい先生で、言わず語らず数学好きの雰囲気がつたわってくる。

T先生の隣に、小学生くらいのお嬢ちゃんがちょこんと腰掛けていた。親戚の家に遊びにいく娘さんを秋田駅のホームまで見送りに来たものの、いざとなったらやはり心配になり、途中の駅まで一緒に乗ることにしたのだという。授業以外ではじめて会話をかわしたにもかかわらず、なんだか波長があう。そこで、T先生が仏像彫刻に造詣の深いことを知った。

週明け最初の授業がそろそろ終わろうかというころを見はからい、すっと手を挙げて「先生、ぜひ仏像の話をお願いできないでしょうか」と発言した。あわよくば脱線授業を、といういたずら心が働いていたことも否定できない。それを察知した同級生たちも「それはいい!」としきりに私を援護する。「そうですか、あなたがたがそんなにいうなら」というやり取りで授業が終わった。

現在の秋田駅

次の時間、事態は予想外の展開になった。T先生が小さな文字でびっしりと仏像の情報を手書きしたプリントを用意して教室に現れたのだ。しかも、それからの1時間、各時代の様式的特徴と代表的作例について滔滔と語り続け、われわれ生徒を動転させたのである。脱線どころか、数学の時間がそっくり美術史の時間に変わっただけだった。

その年の修学旅行の行き先は関西方面。羽越本線から北陸本線経由で大阪、さらにフェリーを乗り継いで高松、もどって奈良と京都をめぐる大旅行である。カルメンマキの「時には母のない子のように」が旅のテーマソングのようにあちこちで流れていた。旅行でT先生の講義が役立ったことはいうまでもない。

この時に奈良の薬師寺で薬師三尊をみたのが大きな転機になった。いま薬師三尊が安置されている金堂は、あの当時の古さびた建物とはすっかり印象が変わり美々しい建物である。なにしろ40年以上前の話だ。高い敷居をまたいで薄暗い堂内にはいっていくと、ほとんど人気のない空間にろうそくの炎がゆらめき、黒光りする丈六仏がボーっと浮かび上がっている。それをみた瞬間、息をのんだ。

全身の肌を内部から押し上げるように漲るエネルギー、薄暗い空間の背後に広がる底知れない時間の堆積、そうした印象が混然一体となって、かつて経験したことのない心理状態を味わったのである。その後、奈良美術にひかれて足繁く通うことになる原点がこのときの経験だった。

あるきっかけで、奈良美術行脚にでるとわれ知らずテンションがあがるらしいことに気づいた。こんなきっかけだ。大学で東洋美術史を専攻していた妻は、わたし以上の奈良美術ファンである。「美術の会」の奈良研修旅行をずっと楽しみにしていたのだが、どういうわけか旅行の直前になって熱をだした。やむなくひとりで参加といえば聞こえがいいが、病人を残してでかけることになった。

近鉄奈良駅をでて登大路を奈良公園の方向に歩いていたら、ちょうど坂をおりてくる会員のM氏にばったりあった。次の研究会でM氏が、「ルンルン気分で坂をのぼってくる人がいると思ったら渡部さんだった。遠くからでもすぐわかりましたよ」とそのときの印象を語った。

まったく悪気のない人だから確かにそう見えたのだろう。ただ、その場にいた妻の機嫌がみるみる悪くなるのがわかった。

秋田高校で「真夏の夜の夢」を上演する

劇場をでるエリザベス女王

私の生涯の楽しみの一つは、アンサンブルの醍醐味を味わうことである。子どものころに熱中したテレビ番組がミッチ・ミラー合唱団の「ミッチと歌おう」で、男声合唱の魅力に惹かれて秋田高校の合唱部に入ったが、秋校合唱部のリーダーシップは女性陣がとっていた。

2年生のとき、彼女たちが秋の文化祭で「真夏の夜の夢」をオペレッタ形式で上演するといいだした。大ごとである。全校生徒が県民会館で文化部の発表を観るプログラムがあるから、学校祭でオペレッタを上演するということは、とりもなおさず1500人の観客の前で歌いかつ演じることを意味するのだ。

脚本はシェークスピアのものをアレンジし、歌唱部分はイタリア歌曲集に収載されている「はかなきは愛のよろこび」「カロミオベン」などの曲をそのまま使うのだという。いささか唐突な取り合わせだが、そうした簡便なスタイルでなら上演できるのではないか、ということになった。

問題は配役である。恋の駆け引きをするディミトリアスでもライサンダーでもなく、妖精パックの役が私にふられたのだ。パックは舞台回しをになう重要な役柄だが、なにしろ軽快に歌いかつ踊る自分の姿がまったくイメージできないのである。困惑の極みというほかない。ただ、冷静になってみれば、いくら私がロマンティックな気質を内に秘めているとはいえ、小柄で丸顔という容貌からしてあながち見当はずれの配役ともいえない。そう考えて不平を飲みこむことにした。

文化祭の当日、楽屋で演劇部の顧問に生まれてはじめてドーランを塗ってもらうと、舞台の袖の暗がりで出番をまった。床板を踏む白タイツの足元がふわふわ軽くて心もとないが、瞬く間に出番がきてしまったから、「ええい、ままよ。」とばかり明るい舞台に飛び出した。中央に進みでてクルクル回転したあと、そのままソロで歌いはじめる。

ふと気がつくと、驚くほど冷静に観客の反応を観察する自分がいた。いったん腹を括ったせいだろうか。舞台から薄暗がりにいる生徒の顔がはっきりみえるし、「あれ、渡部じゃない?」とひそひそ声で評定する同級生の声も耳にとどいた。

演技の出来ばえは不明だが、そう不評ではなかったようだ。舞台写真も撮らなかったし、タイツ姿を鏡に映してじっくり眺める勇気もなかったから、いまとなっては自分の姿が遠い記憶のかなたに霞んでいる。

その後の人生をみると、このオペレッタ上演と同様、女性陣がリーダーシップを発揮する場所にずっと身を置いてきたことが分かる。獲得研も活発に研究を進める会員の半分が女性だ。児童会・生徒会などほとんどの場所で男子がリーダーシップを発揮する時代だったことを考えるにつけ、文化祭での経験は示唆的なものである。

シェークスピア劇場

昨年の3月、リニューアルしたばかりのロイヤル・シェークスピア劇場で「ロミオとジュリエット」を観た。前日にエリザベス女王が観たのと同じ演目で、主人公たちは「ウェストサイド物語」をおもわせる衣装で舞台を疾走する。

観劇のついでに「真夏の夜の夢」が初演されたという場所を訪ねてみたが、なんの痕跡もみつけられなかった。ただ、40年前に県民会館の舞台の袖で感じた開演直前の気分だけが、まざまざとよみがえってきた。

シェークスピアの住居跡から劇場をみる

ルソー「告白」を読む

太陽が男鹿・八郎潟方面に傾くころ

八郎潟東岸の平野部にある生家をでて、高校2年生の秋から秋田市内に下宿した。久保田城のあった矢留山の南側が千秋公園で、復元された御隅櫓などがたつ桜の名所である。同じ山の北側にある住宅地の一角に、まかないつきの下宿があった。千秋北の丸という地名だが、このあたり一帯はもともと佐竹藩の所有地で、県の所有に移管したあと県庁OBの住宅地として分譲された場所だと聞いたことがある。

つれあいを亡くした老婦人が営む下宿は、庭からちょうど目の高さ、手形山方向の高台に、秋田大学鉱山博物館や秋田高校を望む眺めのいい家である。下宿人は、秋大の学生、秋田北高校の女生徒そして私の3人だった。下宿のそばにある長い石段を使って山を下り、奥羽本線の踏切を越えて、北の方角に20分ほど歩くと秋田高校につく。石段から見下ろす正面に、秋田工業高校のグランドがある。後に中日ドラゴンズの監督となる落合博光少年がそこで野球をしていたはずである。

時間の余裕ができたことで読書量も増えていった。人並みに夏目漱石の「こゝろ」や「明暗」なども読んだが、いちばん影響をうけたのはルソーの「告白」(桑原武夫訳、岩波文庫・全3冊)である。2年生の冬、かつて広小路にあった三浦書店で購入したものだ。石油ストーブのかたわらで上巻を繙くと、たちまち文章に魅了されてしまった。

奉公先でリボンを盗んだルソーが、好意をもっていた料理女のマリオンに罪をかぶせたために、なんの落ち度もない少女が仕事を追われるはめになり、その結果、彼が生涯にわたって良心の呵責にさいなまれていた、といったような出来事が赤裸々に語られている。少年時代の庇護者であったヴァランス夫人(ママン)への思慕を熱烈に謳いあげるかと思へば、話題がいつのまにか知性、徳、運命、真理などの哲学的概念のはなしに移っていく、こうした振幅の大きい文章もはじめてふれるものだった。

若山牧水の「みなかみ紀行」を読んでしきりに旅に憧れていたこともあって、ジュネーブを出奔したルソー少年が徒歩旅行をするくだりは楽しかった。「いくら美しいといっても、平坦な地方は、わたしには美しくは見えない。わたしに必要なのは急流、岩石、モミの木、暗い森、山、登りくだりのでこぼこ道、こわくなるような両側の断崖だ。」(上巻、246頁)という記述に続けて、シャイユのあたりにある断崖絶壁を覗き込んでくらくらするめまいを何時間も楽しむエピソードが語られる。高所恐怖症の気のある私はその様子を想像するだけでちょっと息苦しくなった。

中巻、下巻では、ルソーとたくさんの友人たちとの確執が延々と記述されるのだが、短く的確な人物描写のせいで一方の登場人物であるルソーの「敵」たちが作品のなかで実に活き活きと動いている。自らを「不幸な人間」「人を愛しやすい、やさしい人間」と形容するルソーが自分の弱さを率直に開示したかと思うと、すぐそのあとから開き直りにもみえる断定的な自己弁護の叙述が波のように続いてやってくる。

人生を丸ごと読者にさしだす勢いで書かれたこの本を読みながら「彼の友人になるのは難しそうだなあ。」と感じたり、時代の寵児になった途端「自己革命」によって虚飾を離れた生活を企てるルソーに共鳴したりしているうち、いつの間にか「告白」全巻を読み終えていた。

それから10年ほど後に、まさか自分がルソーの生誕地ジュネーブから墓地のあるエルムノンヴィルの村まで、スイス、フランスを1ヶ月かけて歩きまわることになるとは、ましてやその結果として、ルソーの不幸な魂が私の心のうちにすっかり根を下ろしてしまうことになるとは、このときはまだ想像すらできないことだった。

振り返ってみると、今日の研究につながる歩みの第1歩を、この下宿で踏み出していたことになる。

倉橋俊一先生と日本美術

京都 常照皇寺の睡蓮

私の美意識に決定的な影響をあたえる出会いが1976年にあった。政治経済の教師として最初のキャリアを錦城高校ではじめた時のことである。この年から、同じ社会科で日本史を教える倉橋俊一先生に、日本美術とりわけ仏教美術の手ほどきをうけたのである。

ちょうど父親と同世代の倉橋先生は、東大の大学院時代に水墨画研究で知られる谷信一氏の指導を受けた。旅する僧―西行、一遍、良寛―に、生涯深い共感を抱いていたといえば、人柄が分かってもらえるだろう。絵画、彫刻、建築、庭園、陶磁器などにつうじていて、生け花もやれば書もかく。まさに博覧強記だがあくまで謙虚な方で、決して自分の解釈を強いるということがない。

あくる年から「美術の会」という小さな研究会をはじめ、倉橋先生が学園の理事長職を辞して関西に移住する1992年まで、絶えることなく定例会を続けることになる。メンバーは9人。美術の会のフィールドワーク、“冬の旅”と名づけた個人旅行など、寺から寺へ仏像から仏像へと巡る旅に、かれこれ20回ほど同行した。

私の見方は、一体の仏像を前にして、30分、1時間と時間をかけて眺め考えるという仕方である。自分のなかにある図像学的知識が対象にむきあう行為の邪魔をしなくなるまでひたすら待つ。倉橋先生のリズムもそれに近かったから、仏像と対面しているあいだほとんど会話しなかったが、一緒に旅して飽くことがなかった。

以下は、「倉橋俊一先生追悼文集」(2005年)に寄稿した「金剛三昧院の一夜」という文章の後半部である。1979年当時のエピソードを切り取ったものだが、旅の様子がいくらかお分かりいただけるかと思う。

とりわけ寒かったのは真冬の高野山である。かれこれ四半世紀前のことになるが、このときは倉橋先生、物理の斉藤忠夫先生との三人旅という珍しい取り合わせだった。大門の屋根から雪解けの水が滝のように流れていたこと、根本大塔の側を裸足で通り過ぎるお坊さんの下駄の跡が妙にくっきり残っていたことなどを断片的に覚えているが、とりわけ霊宝館の床からスリッパを通して、寒気が立ち昇るように腰のあたりに及んだ感覚を鮮明に思い出すことができる。

宿は金剛三昧院といい、北条政子が頼朝の菩提を弔うために建てた寺。境内に国宝の多宝塔をもつ立派な格式である。長い廊下が眼下の道をまたいでむこうがわにつながっている、その突き当たりの部屋に通された。宿泊客の影もまばらで、静かなことこの上ない。お風呂をでて部屋にかえるまでにすっかり体が冷えてしまうほどの寒さである。

炬燵での夕食。両先生ともいける口ではないが、本場の胡麻豆腐とわずかな般若湯に陶然とされ、夜遅くまで語り合いが続いた。幼年期にうけた躾、読書体験、学生時代に観たフランス映画の俳優(ルイ・ジューヴェ)のことなど、あれからこれへ。戦中・戦後の体験を共有するお二人にそなわった同質の教養、その深さ広さを堪能させていただいた一夜であった。

翌朝、倉橋先生の発案で「なるべく今日中に召し上がってください。」とお店で釘をさされた胡麻豆腐一パックを多武峰のホテルに持ち込み、前夜の余韻を楽しんだ。

倉橋先生も斉藤先生も鬼籍に入られた。しかし、しんしんと冷え込む部屋で過ごしたあの贅沢な一夜の記憶は、これからも私のなかで生き続けていくことになる。

武田清子先生-開拓する人

私の指導教授の武田清子先生(思想史)のインタビュー記事2本が、朝日新聞に相次いで掲載された。4月24日付夕刊「時の回廊」と4月28日付夕刊「人脈記―あの頃 アメリカ」である。

前者は、武田先生の代表作のひとつである『天皇観の相剋―1945年前後―』(1978年 岩波書店)の内容と成立の経緯を、後者はことし94歳になる先生の研究者として歩みを、いずれも今日的な問いを投げかけるものとして紹介している。

後者は「いい年をした私も、この人の前ではハナタレ小僧になった気がする」という書き出しである。とっても良くわかる。私も同じだからだ。

以下、日本大学教育学会の「会報」No.56(2011年5月31日)に寄稿した文章を掲載する。(一部割愛)

人生の喜びの一つは良き師、良き仲間との出会いであろう。私の場合でいえば定期的に参加している「思想史研究会」がそれにあたる。ICU(国際基督教大学)で武田清子教授の指導を受けた元学生10人の集まりである。会員は大学の1期生から20期生まで、年齢でいえば80歳近くから60歳あたりまでで、19期生の私は完全な若手に分類されている。共通しているのは、全員が「現役」の研究者だという点である。

毎回、新宗教、女性史など、それぞれの研究テーマについて報告してからディスカッションに移るのだが、今年94歳になる武田先生がだれよりも熱心に質問し、報告の論点が深まらないときは「つまらないわね」とズバリ批評する。会員同士が日常的に行き来することは殆どないが、それでていて互いへの信頼感を保ち続けている、純粋に研究的な交わりだといえる。

クリスチャンもノン・クリスチャンもいる自由な雰囲気にみちた「談話のコミュニティー」、それが私の思想的土壌である。こうした運営に象徴される武田先生の指導は、一言でいえば、各個人の内発的動機を尊重しながら、長く追究するに値する研究テーマ―先生はそれを“研究の鉱脈”と呼ぶ―を自分の手で掘り当てるようにアドバイスするというものだ。「自立した個」として相手を尊重するという姿勢は、先生自身が開拓的な仕事を続けてきたことと関わっているように思う。

自伝的な本である『わたしたちと世界―人を知り国を知る』(岩波ジュニア新書、1983年)や『出逢い―人、国、その思想』(キリスト新聞社、2009年)を読むと、フランクリン・ルーズヴェルト夫人やインドのネルー首相など交流の広さに驚くとともに、20世紀から21世紀にまたがる、一人の研究者としてまた女性としての、稀有な思想形成の歩みをうかがい知ることができる。

武田清子先生は、1917(大正6)年に伊丹市郊外の大地主の家に生まれ、親鸞の教えに帰依するお母さんの影響を受けて育った。入学した神戸女学院では、デフォレスト院長の思想に深く共鳴する。それは、「人間が自らの位置を占め、ほかの誰もなし得ないものを社会に貢献するよう、神が一人ひとりにチャンスを与えている」という信念である。1942年に戦時交換船で、留学先のアメリカから帰国することになるのだが、そのときすでに生涯のテーマを「キリスト教思想と日本の伝統的思想(神観、人間観、歴史観、社会観)がどのような対話、相剋を展開するかを思想史の課題とする」と定めている。戦後、そのテーマを一貫して追究するなかで『人間観の相剋―近代日本の思想とキリスト教』(1959年、弘文堂)、『天皇観の相剋―1945年前後―』(1978年、岩波書店)など、比較文化的、比較思想的な数々の作品を残してきた。

武田先生の開拓性にはいくつかの側面があるように思う。一つは、留学で得た新しい問題関心を戦後できたばかりのICUという大学を舞台に時間をかけて育んでいったこと。もう一つは、それと表裏の関係にあるが、大塚久雄、丸山真男氏らが寄稿した『思想史の方法と対象―日本と西欧』(武田清子編、1961年、創文社)にみられる通り、新しい学問としての思想史研究のあり方そのものを問い続けてきたこと。さらには、アイヌ伝道のジョン・バチュラー、民芸運動の柳宗悦、婦人参政権運動の市川房枝など、それぞれの分野で開拓的な仕事をした人々の思想をよく研究の対象にしていることである。

かつて、武田先生の指導のもとで「J.J.ルソーにおける平等思想の展開」という卒業論文を書き、以来、35年にわたって指導を受けている。結婚式の主賓挨拶が「淳くん、勉強してください」だったが、その後、思想史研究から教育研究に「方向転換」した教え子の研究の進展をよほど心配に思っておられるようで、いまでも時々電話をかけてきてくださる。

時代の提起する課題と向き合って開拓的な仕事をする人、一日一日を大切にして日々の暮らしを振り返る人、それが武田先生を通して描く「私の教師」のモデルである。先生から学んだことを、どれだけ学生の指導に生かせているのか心もとなくはあるのだが、こうした先達に巡り合えた偶然をしみじみ幸運だと感じている。

ブログはじめました

獲得研で共同研究をはじめてから、この3月で丸6年が経過した。会員の間で4千通近いメールが飛び交い、活発な議論が行われている。この過程で、メンバーから研究の輪をもう少し大きくすべきでないかという意見もたびたび出されてきた。

そこで、新学期から「獲得研レクチャーシリーズ」など、いくつか新しい企画をはじめることになった。このブログもその一つで、ここでは、研究にまつわるあれこれを報告させていただく予定である。

とはいっても、「演劇的知の周辺」という題からお察しいただける通り、研究会でいま議論している内容だけでなく、獲得研の創設につながる経験、そして身辺雑事にいたるまで幅広い内容になるのでは、と考えている。それでは、そろりそろりと始めさせていただきます。