日別アーカイブ: 2012/05/26

屋根のある風景―茅葺き屋根の家

冬枯れのころ:生家の庭

めったにみる機会はないが与謝蕪村の「夜色楼台図」が好きだ。暗い夜空、白い雪山のふもとに家々の屋根がつらなる風景である。作品のもつ静かな詩情にひかれるということもあるが、失われたものの記憶が呼び覚まされるからではないか、と思っている。

私の想念は、この画に触発されたという三好達治の「太郎を眠らせ 太郎の家に 雪ふりつむ。」の世界に遊び、そこから萱葺屋根の家ですごした少年時代にまで飛んでいく。

奥羽山脈と秋田平野の境界となる低い台地のうえに、戸数50戸ほどの集落がある。その中の一軒、典型的な葺屋根の農家が私の生家である。宮沢賢治の羅須地人協会の黒板に「下ノ畑ニオリマス」と書かれているのは有名だが、花巻のことは知らず、私の育ったところは農作業にでるときも戸締り不要で、日中はいつも開けっ放し、それでも留守中に泥棒がきたという話はついぞ聞かなかった。

屋敷はいまでも野生の雉の散歩コースで、つがいの雉が植え込みの間をけたたましい声をあげて行き来している。

外から生家の屋根をみると、大屋根の上にもう一つ空気抜きの小屋がのっている。その下にある土間は、黒く煤けた柱組みが露出するひんやりと湿り気を含んだ空間である。炉で燃やした薪の煙が天井を燻し、萱に虫がつくのを防いでいると聞いた。

中学校で国語を教わった小林卓巳先生が、写真集『男鹿・八郎潟-その歴史とさいはての詩情』(木耳社 1968年)のなかでこの屋根を「忍従に耐えた男らしさ、静かに春を待ち続ける不屈のエネルギーが息づいている」と表現した。

萱屋根の下に大家族の暮らしがあった。土間の一角の「板の間」が農繁期の食事場所になり、賑やかな餅つきが年末恒例の行事だった。ある年は、黒川番楽の一行が「奥の間」で勇壮に舞い、屋根の葺き替えには村中から人が集まった。

いまはどれも記憶のなかにだけある世界だ。高度経済成長の裏側で農業は衰退を続ける。私が村を離れた1970年代、暮らしは格段に便利になったが、このあたりにあった萱屋根もすべて消え、軽量でカラフルなトタン屋根の広がる風景になった。

晴れわたった冬の夜、あたりの空気が「シンッ」とするのは、厚く葺かれた萱が音を吸収してしまうためだろうか。母屋の北側にある作業場から空を見上げると、中空に月が浮かび、その下に、融け残った雪をのせた屋根がくろぐろと広がっている。それが私のこころの風景である。