A. クリスティーの「ねずみとり」を観る

セント・マーチンズ劇場(これは2012年の撮影)

ロングランにはそれなりの理由があると感じたのは、ロンドンのセント・マーチンズ劇場で「ねずみとり」を観たときだ。記録的なロングラン芝居だと知ってはいたが、「まあ、こんどきたときにでも」と先延ばししているうちに年を重ね、北京オリンピックの年にやっとその機会がきた。

この年の夏に、デボン州のトーキー博物館で「日本におけるアガサ・クリスティー」と題する講演を依頼されたから、せめて現地入りする前に観ておこう、と思い立ったのだ。

ロビーで開演を待つ間、プログラム売りの青年と立ち話になった。「日本からいらしたんですか?」と親しげに話しかけてくる。きちんと髪を整えた精悍な印象の若者で、聞けば合気道を習っていたことがあるそうだ。言葉のはしばしに日本びいきの雰囲気を漂わせている。

この芝居、とくに人を驚かせるような趣向はないが、原作のストーリーに忠実でとてもわかりやすい。なるほど、これなら大衆受けするだろう。テレビの「水戸黄門」をみているような安心感がある。

詳細は原作にあたっていただくとして、宿を経営する若い夫婦が、殺人事件が起こった日のお互いの行動を知らなかったことから、しだいに疑惑を膨らませていくところが物語のポイントである。

そして大詰め。いよいよ謎解きの場面になる。ところが、女主人公の大詰めのセリフをきいて、思わず椅子からずり落ちそうになった。彼女が、謎解きのカギとなる品物「ハバナの葉巻」を、だれにもはっきりわかる発音で「日本製の葉巻」といったからだ。

おそらくロビーで会ったくだんの若者から当日の観客の情報が楽屋に届き、それを受けて、女主人公のたった一言のセリフ「日本製の葉巻」になったのだろう。そのルートを想像しただけで、観客としては嬉しいではないか。ストーリーから離れたアドリブのサービスとは違う、なんともスマートなサービスである。

その後は、あっという間のカーテンコール。一人の役者が進みでて「どうぞみなさん、(ミステリーですので)ここで起こったことは、口外なさいませんように」とスピーチして、観客がドッと笑った。

デボン州の海

ところで、頼まれた講演の方だが、トーキーは、“イングリッシュ・リビエラ”と呼ばれる一大観光地で、ひとも知るクリスティーゆかりの土地である。博物館の展示の目玉もクリスティー関連のものだ。

旧知のニーランズ教授(ウォーリック大学)から「土地柄、クリスティー・ファンが多いから、どんな質問がでるかわからない。気を付けた方がいいよ」とアドバイスされていた。しかも、レセプション会場につくと、クリスティーと関わりのある年配の紳士・淑女が何人も挨拶にくるではないか。

そんなこんなで、話しだす前は、さすがにちょっとナーバスになった。ただ、テーマの気安さと、会場の雰囲気のあたたかさに支えられて、さしたる手傷を負うこともなく切り抜けることができた。

夕暮れのブリクサム

 

 

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