私の生まれた東北地方は高度経済成長を支えた労働力の供給源の一つである。「若い根っこの会」の活動などがよく新聞で取り上げられていて、春になると集団就職列車の出発が大きなニュースになる時代だった。おもな就職先は首都圏の中小企業や中京圏の紡績工場である。いまでこそお国言葉の面白さが喧伝されているが、都会にでる若者の方言コンプレックスが深刻な問題だった。
私の村の小学校も「標準語」指導に熱心だった時期がある。例の方言札というのではないが、「カード集め」とでもいったらいいのか、うっかり方言を話してしまった子が手持ちカードを相手に渡し、帰りの学級会でそれぞれのカードの数を点検する方式がいっとき導入されたりした。いまおもえば、標準語推進のモデル校か何かだったのかもしれない。それほど一生懸命だった。
高学年になるころNHKラジオのインタビューがあった。呼ばれた子どもは3人で、あとの2人は上級生の女の子である。音楽室にいくと、放送局の人がオープンリールの立派なテープレコーダーをセットしている。ちょっとした会話でわれわれの気持ちをほぐしたあと、アナウンサーと思しき男性が、順番にマイクを差し出してくる。子どもの口からでる標準語をとるのが目的だから、話題そのものはたわいないものである。ただ、目の前のマイクが思いのほか大きくて緊張するうえに、「標準語でしゃべる」というプレッシャーがさらに緊張を加速させる。
痛恨事は、本番で1か所訛ったことである。「しまった。」と感じたが後のまつり、失敗がひどくこたえた。家に帰って家族に打ち明ける気にもならない。できれば翌日の放送をパスしたい気分だったが、いやいや聴いてみると、なんと訛ったところがでてこないではないか。じょうずに編集されていたからだ。憂鬱な一晩をすごしたあとだっただけに、すっかり拍子抜けしてしまった。
そんな屈辱体験はあったが、小さい頃からラジオを聴いていたのが耳の訓練になったらしい。小学校をでるころには、状況に応じて方言と共通語をそれなりに使い分けるようになっていた。統合中学にあがると、後に親しくなった別の小学校出身のWくんから「入学したてのころ、東小の出身で標準語を話すやつがいると聞いて教室を覗きにいったよ。」と聞かされたから、知らないうちに見物の対象にされていたことになる。
中学3年生のとき警察署が主催する防犯弁論大会にでることになった。迷わず、秋田から東京に就職した若者が職場の仲間から方言をからかわれ、それが引き金になって自殺した出来事をテーマに選んだ。もちろんこれといった対案があるわけではない。しかし、事件の理不尽さを告発せざるをえないやりきれなさを感じたのである。
この方言の問題もそうだし、高度成長にとりのこされていく農村の跡取りに生まれたということもそうだが、少数者の視点から、戦後社会の光と影の両方の側面を同時に見る、ということが自分の中で身体化されていくことになった。
思いがけず湖東地区大会で優勝し県大会に進んだときは、隣町のパトカーが、自宅から秋田市内の会場まで送迎にきてくれた。