高校3年生の担任だった国語の山岡雄平先生は、カラーシャツにネクタイ、低音の落ち着いた物腰の先生である。萩原朔太郎の詩「竹」の授業でいっぺんに朔太郎ファンになったから、孫の萩原朔美さん(多摩美術大学教授)と東放学園の「ドラマケ―ション」普及プロジェクトに関わるようになったときは嬉しかった。
そして山岡先生が授業で取り上げた井伏鱒二の小品「「槌ツア」と「九郎ツアン」は喧嘩して私は用語について煩悶すること」(初出1937年)が、私のものの見方を大きく変えた。題名こそ長いが、本文は筑摩書房版『井伏鱒二全集 第六巻』(1997年刊行)でわずか7ページの作品である。
井伏の郷里では、名前の呼び方が「××サン」にはじまり「××ツアン」「××ヤン」「××ツア」「××サ」まで五つに区別されていた。井伏はこれを用語の階級的区別と表現している。作品の主要人物は、村会議員「槌ツア」と村長の「九郎ツアン」である。「槌ツア」は人から「××サン」と呼ばれたいという希望をもっている。その「槌ツア」が、あるときの会合で「九郎ツアン」から「槌ツア」と呼ばれたことに激しく抗議する。「満座のなかで人を呼び捨てにしたのう。」と喰ってかかるのである。それに対して村長「九郎ツアン」が「槌ツアと言ったが悪いかのう。」と反問したことから大騒動がはじまる。家族をあげての確執、村中をまきこんでの批評合戦、ヒートアップした対立はたんなる呼び方の問題にとどまらず、「槌ツア」の家が大阪弁、「九郎ツアン」の家は東京弁をそれぞれ会話に導入して互いに対抗するにいたる。
農村社会の根強い階層性とそこに暮らす人々の心理の綾をみごとに描いた作品、「これは私の村のことだ。」と感じた。まとわりつくように濃密な人間関係、「世間の目」という名の圧迫感をどう克服するのか、それば農家の跡取りに生まれた私の切実なテーマだったのだ。当時の村では、農村特有の相互扶助システムがまだ機能していた。飛騨高山の結ほどの規模ではないが、萱葺屋根の葺き替えがあると集落中から50人もの人が集まってそれは賑やかなものだった。そうした関係に居心地良さを感じる自分がいる一方で、同じ自分が何世代にもわたる地縁・血縁に息苦しさも感じていた。
文体、構成の見事さはおくとして、なによりうたれたのは作品世界と作者本人との絶妙な距離感である。槌ツアにしても九郎ツアンにしても登場人物たちはそれぞれに必死だ。たしかに必死なのだが、彼らが必死に行動すればするほどその言動がユーモラスに見える世界でもある。こうした世界を外部の眼で批評することはたやすいだろうが、けっして厚みのある作品にはならない。井伏は、作品世界の真っ只中に幼少の「自分」と祖父を登場させ、状況を丸ごと相対化する視点で描いている。そこにこそ「私の世間」を克服する視座があるような気がした。
後年、福山市から福塩線に乗り万能倉駅で下車し、井伏の郷里の旧加茂村大字粟根(現・福山市加茂町)までタクシーを走らせたことがある。駅をでてしばらく走ると、徐々に谷筋が狭まっていき、周囲の山が間近かに見えるころに粟根集落についた。大きなお地蔵さんがすわる道端から斜めに急坂を登るとちょっとした高台で、その上に室町時代から続く井伏邸がある。散在する瓦屋根がひろがる風景は、私の郷里にくらべるとずっと歴史の厚みを感じさせるものだが、そうではあっても、井伏作品に登場する眼前の農村風景と遠くに俎板山を見晴るかす郷里の風景が、私にはどうしても二重写しになってみえてくる。
作品の末尾近くに井伏が「「オトツツア」「オカカ」「オトウヤン」「オカアヤン」「オトツツアン」「オカカン」という用語は、百年たっても消え去らないように思われた。」と書いている。私の郷里では、用語改革も生活改善運動のテーマだったはずだが、1960年代にいたってなお呼び名の階層性が明瞭だった。詳しく調べたことはないが、本当に用語が変わったのは戦後世代の夫婦が子どもに「パパ、ママ」を使わせるようになってからではないだろうか。当時、村の子どもはお互いを呼び捨てにしていた。なぜか私が屋号で「かぶらの淳チャ(ちゃん)」と呼ばれていたため「チャ」を名前の一部だと思いこんでいる子どももいて、ときどき丁寧な言い回しで「淳チャちゃん、いるべか(いますか)。」と訪ねてきたりした。
この作品との出会いを期に、透徹した作品世界に長く親しんできた。彼の交友関係をたどり青柳瑞穂の『ささやかな日本発掘』や『壺のある風景』なども読むようになった。生前の井伏に会ったことはない。告白すると、荻窪清水町の井伏邸の前までいってみたことはある。丸い穏やかな風貌から、酒の飲み方、旅の仕方にいたるまで、井伏鱒二は私にとって成熟したオトナのモデルであり、それはどこかで私の祖父のイメージにつながっている。