私の美意識に決定的な影響をあたえる出会いが1976年にあった。政治経済の教師として最初のキャリアを錦城高校ではじめた時のことである。この年から、同じ社会科で日本史を教える倉橋俊一先生に、日本美術とりわけ仏教美術の手ほどきをうけたのである。
ちょうど父親と同世代の倉橋先生は、東大の大学院時代に水墨画研究で知られる谷信一氏の指導を受けた。旅する僧―西行、一遍、良寛―に、生涯深い共感を抱いていたといえば、人柄が分かってもらえるだろう。絵画、彫刻、建築、庭園、陶磁器などにつうじていて、生け花もやれば書もかく。まさに博覧強記だがあくまで謙虚な方で、決して自分の解釈を強いるということがない。
あくる年から「美術の会」という小さな研究会をはじめ、倉橋先生が学園の理事長職を辞して関西に移住する1992年まで、絶えることなく定例会を続けることになる。メンバーは9人。美術の会のフィールドワーク、“冬の旅”と名づけた個人旅行など、寺から寺へ仏像から仏像へと巡る旅に、かれこれ20回ほど同行した。
私の見方は、一体の仏像を前にして、30分、1時間と時間をかけて眺め考えるという仕方である。自分のなかにある図像学的知識が対象にむきあう行為の邪魔をしなくなるまでひたすら待つ。倉橋先生のリズムもそれに近かったから、仏像と対面しているあいだほとんど会話しなかったが、一緒に旅して飽くことがなかった。
以下は、「倉橋俊一先生追悼文集」(2005年)に寄稿した「金剛三昧院の一夜」という文章の後半部である。1979年当時のエピソードを切り取ったものだが、旅の様子がいくらかお分かりいただけるかと思う。
とりわけ寒かったのは真冬の高野山である。かれこれ四半世紀前のことになるが、このときは倉橋先生、物理の斉藤忠夫先生との三人旅という珍しい取り合わせだった。大門の屋根から雪解けの水が滝のように流れていたこと、根本大塔の側を裸足で通り過ぎるお坊さんの下駄の跡が妙にくっきり残っていたことなどを断片的に覚えているが、とりわけ霊宝館の床からスリッパを通して、寒気が立ち昇るように腰のあたりに及んだ感覚を鮮明に思い出すことができる。
宿は金剛三昧院といい、北条政子が頼朝の菩提を弔うために建てた寺。境内に国宝の多宝塔をもつ立派な格式である。長い廊下が眼下の道をまたいでむこうがわにつながっている、その突き当たりの部屋に通された。宿泊客の影もまばらで、静かなことこの上ない。お風呂をでて部屋にかえるまでにすっかり体が冷えてしまうほどの寒さである。
炬燵での夕食。両先生ともいける口ではないが、本場の胡麻豆腐とわずかな般若湯に陶然とされ、夜遅くまで語り合いが続いた。幼年期にうけた躾、読書体験、学生時代に観たフランス映画の俳優(ルイ・ジューヴェ)のことなど、あれからこれへ。戦中・戦後の体験を共有するお二人にそなわった同質の教養、その深さ広さを堪能させていただいた一夜であった。
翌朝、倉橋先生の発案で「なるべく今日中に召し上がってください。」とお店で釘をさされた胡麻豆腐一パックを多武峰のホテルに持ち込み、前夜の余韻を楽しんだ。
倉橋先生も斉藤先生も鬼籍に入られた。しかし、しんしんと冷え込む部屋で過ごしたあの贅沢な一夜の記憶は、これからも私のなかで生き続けていくことになる。