月別アーカイブ: 5月 2012

屋根のある風景―茅葺き屋根の家

冬枯れのころ:生家の庭

めったにみる機会はないが与謝蕪村の「夜色楼台図」が好きだ。暗い夜空、白い雪山のふもとに家々の屋根がつらなる風景である。作品のもつ静かな詩情にひかれるということもあるが、失われたものの記憶が呼び覚まされるからではないか、と思っている。

私の想念は、この画に触発されたという三好達治の「太郎を眠らせ 太郎の家に 雪ふりつむ。」の世界に遊び、そこから萱葺屋根の家ですごした少年時代にまで飛んでいく。

奥羽山脈と秋田平野の境界となる低い台地のうえに、戸数50戸ほどの集落がある。その中の一軒、典型的な葺屋根の農家が私の生家である。宮沢賢治の羅須地人協会の黒板に「下ノ畑ニオリマス」と書かれているのは有名だが、花巻のことは知らず、私の育ったところは農作業にでるときも戸締り不要で、日中はいつも開けっ放し、それでも留守中に泥棒がきたという話はついぞ聞かなかった。

屋敷はいまでも野生の雉の散歩コースで、つがいの雉が植え込みの間をけたたましい声をあげて行き来している。

外から生家の屋根をみると、大屋根の上にもう一つ空気抜きの小屋がのっている。その下にある土間は、黒く煤けた柱組みが露出するひんやりと湿り気を含んだ空間である。炉で燃やした薪の煙が天井を燻し、萱に虫がつくのを防いでいると聞いた。

中学校で国語を教わった小林卓巳先生が、写真集『男鹿・八郎潟-その歴史とさいはての詩情』(木耳社 1968年)のなかでこの屋根を「忍従に耐えた男らしさ、静かに春を待ち続ける不屈のエネルギーが息づいている」と表現した。

萱屋根の下に大家族の暮らしがあった。土間の一角の「板の間」が農繁期の食事場所になり、賑やかな餅つきが年末恒例の行事だった。ある年は、黒川番楽の一行が「奥の間」で勇壮に舞い、屋根の葺き替えには村中から人が集まった。

いまはどれも記憶のなかにだけある世界だ。高度経済成長の裏側で農業は衰退を続ける。私が村を離れた1970年代、暮らしは格段に便利になったが、このあたりにあった萱屋根もすべて消え、軽量でカラフルなトタン屋根の広がる風景になった。

晴れわたった冬の夜、あたりの空気が「シンッ」とするのは、厚く葺かれた萱が音を吸収してしまうためだろうか。母屋の北側にある作業場から空を見上げると、中空に月が浮かび、その下に、融け残った雪をのせた屋根がくろぐろと広がっている。それが私のこころの風景である。

森有正と出発の意識

大学1年生の秋、ICU教会の祭壇にオーストリア・リーガー社製の大きなパイプオルガンが入ることになった。グリークラブの一員として献納式の演奏に加わったそのオルガンで、フランス在住の哲学者・森有正氏が練習をはじめる。噂では、毎朝5時半頃に起床してバッハを弾いているという。

朝食時間がわれわれ寮生とかさなるから、辻邦生さんが「森先生はうつむき加減にあるく」と書いているまさにそのとおりの姿勢で、足早に食堂に入ってくる。大柄な体躯で精力的に食事をする森さんの姿と、リリカルなタイトルの本の著者としてのイメージのギャップが面白かった。

ロータリーから教会をみる

学生寮のおしゃべりの会にきてくれたとき、「おやっ」と思ったことがある。靴下のかかとに穴があいていたからだ。ワイシャツの袖口もほつれている。いくら40年前とはいっても、さすがに靴下の穴は珍しい。その無頓着さを好ましく感じた。

木下順二さんが、弔文「森有正よ」(『展望』1976年12月号)で、若き日の部屋の乱雑さにふれている。本郷YMCAの自室で、たった一人しかいない指導学生の卒論を紛失してしまい、主任教授が大学に始末書をだしたというのだ。

まず影響をうけたのは出発の意識に関する文章だ。お父さんの納骨の一週間後、13歳の有正少年が、一人でもういちど多磨墓地にやってきて、こう決意したという。「僕は墓の土をみながら、僕もいつかかならずここに入るのだということを感じた。そしてその日まで、ここに入るために決定的にここにかえって来る日まで、ここから歩いていこうと思った。」(「バビロンの流れのほとりにて」筑摩書房)。それは、「その日からもう三十年、僕は歩いてきた。」(5頁)という文章に続く。森さんが、はるか遠くまで歩いていって戻ってくるプロセスそのものを人生だととらえたことに共感したのである。

森さんの文章が、ヨーロッパ文明にむきあう手がかりだった時期がある。にもかかわらず、読者としては実に勝手な読み方をしていた。「旅の空の下で」に大伝馬船がセーヌ川をさかのぼる話がある。流れに逆らってゆっくり上っているようにみえる船が、気がつくとずっと上流まで進んでいるという文章だ。森さんは船を見ている自分の側の「変貌」について語っている。だが、それを読んでいる私はといえば、水の流れに抗して進む伝馬船に自己の存在を仮託して、意志の持続というものを考えている。

船のスピードが遅いと感じるのは通常の時間感覚だが、内的な変貌はこの時間感覚よりもさらにゆっくり、しかも絶え間なく続いている。だから、一人の人間のなかの時間感覚のズレが、驚くほど遠くまでいったと感じさせるのだと解釈した。私がときどき感じる「ああ、こんなに遠くまできた。」という実感は、そうした変化の自覚である。この自覚は、出発の意識があってはじめて確かなものになる。それが変貌というものの姿ではないか、と漠然と感じていたのだ。

伝馬船の例にしてもノートルダム寺院のことにしても、森さんの文章には思索の手がかりがいくつもでてくる。それを表現する仕方も作品によってどんどん変化する。同じ経験についての叙述が、音楽のように転調するから、繰り返し読んでも対象を掴めたという実感がない。逆に読者の多様な解釈を誘発することが、古典の域に入る作品の条件のように思えたりもする。

私は森有正が形成する文化圏の脇を通っただけだから、ちっとも思想の本質を理解できたと思わない。しかし、森さんの思考が自分の感覚のなかに定着していることを感じる瞬間がこれまでいくらもあった。

森さんが亡くなった翌年、ルソーの旧跡をたずねてシャンベリーからレ・シャルメットに向かう田舎道をとぼとぼ歩いているときに「とうとうここまできてしまった。」と感じたこともそうだし、ブルゴーニュの山の上にある森閑とした広場で、ロマネスク教会のファサードを見上げながら、やはり同じように感じたとき、私は自分のなかにある森さんの影響を感じないわけにはいかなかった。

 

茂山千作師と狂言の身体

 

ガーデンパレスから蛤御門をみる

茂山千作さん(大蔵流狂言師 人間国宝)の芸の魅力については、いまさらいうまでもない。小柄なからだが舞台に登場するだけで圧倒的存在感を発揮する。その千作さんが、大・中・小の笑いを笑いわけるのを、目の前でみた。大きく開かれた口、ゆったりしたリズム、全身が笑いそのものになっている。ちょうど10年前の公開対談のおりだ。

対談の場所は、蛤御門のまえにある京都ガーデンパレス。宴会場の仮設舞台である。ある研究会で「狂言の身体と表現力」という講演をお願いしたのだが、「ひとりでしゃべるのはどうも。」ということで、急遽、対談形式になった。対談のプロットを書いたのは同志社高校の網谷正美先生(国語)である。ご自身がキャリア30年をこすプロの狂言師とあって、質問の内容がじつに行き届いている。

対談にさきだって打ち合わせに伺った。舞台やテレビは別として、じかにお目にかかるのは初めてである。京都御所近くにあるご自宅の応接間で対面した瞬間「あっ」と思った。ちょっと重心を低くして立つ姿が、狂言の姿そのものなのだ。

ことばでうまく表現できないが、そのとき私が感じたのは「生きた狂言がここにいる。」ということだ。このときの千作さんは83歳。芸歴はすでに80年を数えている。この日から、立ち姿の大切さについて考えるようになった。

対談当日、会場で意想外のことが起きた。羽織袴姿の千作さんが、扉のすぐ内側のジュータンの上で草履を脱いだのだ。しかも、そのまま舞台にむかって真っすぐ歩きだすではないか。千作さんは、もう橋懸りをゆく舞台人の顔になっている。

私はあっけにとられ、靴を脱ぐタイミングを失したまま千作さんについていく。黄門様のあとを小走りでおいかける“うっかり八兵衛”のようなものだ。「やはり靴を脱いだほうがいいですね。」と半歩後ろから小さく声をかけると、千作さんがまっすぐ前をむいたまま、低い声で「ハイ」と一言いった。なんとも間抜けな質問をしたものだ。

私は千作さんの講演を支える助演者たるべきだったのだが、心の準備が十分でなかった。その日の私の服装はといえば、ジャケットにハイネックのシャツ、とうぜん靴下をはいている。対談のおりの写真をみるたびに「それにしても舞台で靴下はさまにならない。」と思うのである。

蛤御門から仙洞御所の方向をみる

A. クリスティーの「ねずみとり」を観る

セント・マーチンズ劇場(これは2012年の撮影)

ロングランにはそれなりの理由があると感じたのは、ロンドンのセント・マーチンズ劇場で「ねずみとり」を観たときだ。記録的なロングラン芝居だと知ってはいたが、「まあ、こんどきたときにでも」と先延ばししているうちに年を重ね、北京オリンピックの年にやっとその機会がきた。

この年の夏に、デボン州のトーキー博物館で「日本におけるアガサ・クリスティー」と題する講演を依頼されたから、せめて現地入りする前に観ておこう、と思い立ったのだ。

ロビーで開演を待つ間、プログラム売りの青年と立ち話になった。「日本からいらしたんですか?」と親しげに話しかけてくる。きちんと髪を整えた精悍な印象の若者で、聞けば合気道を習っていたことがあるそうだ。言葉のはしばしに日本びいきの雰囲気を漂わせている。

この芝居、とくに人を驚かせるような趣向はないが、原作のストーリーに忠実でとてもわかりやすい。なるほど、これなら大衆受けするだろう。テレビの「水戸黄門」をみているような安心感がある。

詳細は原作にあたっていただくとして、宿を経営する若い夫婦が、殺人事件が起こった日のお互いの行動を知らなかったことから、しだいに疑惑を膨らませていくところが物語のポイントである。

そして大詰め。いよいよ謎解きの場面になる。ところが、女主人公の大詰めのセリフをきいて、思わず椅子からずり落ちそうになった。彼女が、謎解きのカギとなる品物「ハバナの葉巻」を、だれにもはっきりわかる発音で「日本製の葉巻」といったからだ。

おそらくロビーで会ったくだんの若者から当日の観客の情報が楽屋に届き、それを受けて、女主人公のたった一言のセリフ「日本製の葉巻」になったのだろう。そのルートを想像しただけで、観客としては嬉しいではないか。ストーリーから離れたアドリブのサービスとは違う、なんともスマートなサービスである。

その後は、あっという間のカーテンコール。一人の役者が進みでて「どうぞみなさん、(ミステリーですので)ここで起こったことは、口外なさいませんように」とスピーチして、観客がドッと笑った。

デボン州の海

ところで、頼まれた講演の方だが、トーキーは、“イングリッシュ・リビエラ”と呼ばれる一大観光地で、ひとも知るクリスティーゆかりの土地である。博物館の展示の目玉もクリスティー関連のものだ。

旧知のニーランズ教授(ウォーリック大学)から「土地柄、クリスティー・ファンが多いから、どんな質問がでるかわからない。気を付けた方がいいよ」とアドバイスされていた。しかも、レセプション会場につくと、クリスティーと関わりのある年配の紳士・淑女が何人も挨拶にくるではないか。

そんなこんなで、話しだす前は、さすがにちょっとナーバスになった。ただ、テーマの気安さと、会場の雰囲気のあたたかさに支えられて、さしたる手傷を負うこともなく切り抜けることができた。

夕暮れのブリクサム

 

 

中学校で「萩大名」を演じる

演劇的手法にかかわる本をいくつか書いたし、ふだんから芝居にふれる機会も多いが、かといって演劇部にいたことはない。ただ、何かしら人前で演じてきた記憶がある。

それは小学校時代にはじまる。学芸会が最大行事のひとつとあって、村中の老若男女が体育館につめかけ、それは賑やかなものだった。1年生のとき「おだんごころころ」のお地蔵さんに指名された。上手から下手に、ドッジボール大につくられただんごが坂をころがり落ちてくる。あたりをみまわした私が、壇をおりてそれを食べ、村人がくる前にそ知らぬ顔でもとのお地蔵さんのポーズにおさまる。その瞬間、客席がどっと湧き、どよめきが波動になって舞台に伝わってきた。これが演技の面白さに開眼した瞬間だったように思う。

中学校のとき狂言「萩大名」の全校上演があり、ここでは無教養な大名の役に指名された。無聊をなぐさめるべく庭園見物にいく大名が、庭の主人に感想をもとめられたときの用意に和歌を習う話だ。太郎冠者が教えたのは「七重八重 九重とこそ思ひしに 十重咲きいずる 萩の花かな」というもの。これが覚えられない。苦肉の策で、太郎冠者がサインを送り、それをたよりに一区切りごとに詠み進めるが、それすらうまくいかない。とうとう太郎冠者がさじを投げる。庭にひとり取り残された大名が、「萩の花かな」を「太郎冠者のむこうずね」と詠んで恥をかくところが見せ場になる。

この大名はしどころのある役柄で楽しかった。演出は国語のK先生。大名の衣装は家庭科の先生がわざわざ縫ってくれたのだが、太郎冠者のきる裃だけはわが家の土蔵からひっぱりだした古着で代用することになった。太郎冠者を演じるMくんは、高校ラグビーで全国大会に出場したつわもの。いかつい体型である。はたして彼の衣装として、布地の草臥れた江戸時代の裃がほんとうに役立ったのかどうか、そのあたりの記憶が定かではない。

こう見てくると、意図してそうしたのではないにしろ、観客のまえで歌ったり演じたりする機会が意外に多かったことに気づく。私が好きなのは創造的で心地よいアンサンブルが創りだされる瞬間だ。だから、そのプロセスに参加すること自体がまたなんとも楽しいのである。

と、ここまで書いて妻にみせたところ、「ただ目立ちたがりで、喝采を浴びたのが嬉しかっただけじゃないの。」と一蹴して去って行った。

小学校の体育館

集落対抗相撲のこともそうだが、小学校の体育館がしばしばハレの空間になった。式典はもちろん、学芸会、映画会などの文化・スポーツ行事がすべてここでおこなわれたからだ。その体育館についてちょっとした思い出がある。

一つは、入学してほどなく瞼を切った事件である。休み時間、友だちと前後して体育館に駆け込もうとしたとき、なかを走り回っていた上級生と鉢合わせしたのが原因である。「目から火がでる」というがまさにそれで、にぶい衝撃を感じると同時にもんどりうって転倒した。最初は何が起こったかわからなかったが、まもなく眉毛のあたりから血が滴りだした。上級生の学生服のボタンがちょうど目のあたりにあたったらしい。すぐに村の診療所に運ばれ、その場で数針縫ってもらった。手術のあと看護婦さんに「よく泣かなかったわねえ。」とほめられたのがちょっと自慢だった。気丈というよりは、あれよあれよという間に手術が終わってしまっていたというのが正しい。右の瞼にいまも薄く残る傷跡がそのときの勲章である。

もう一つは、夜の体育館のことだ。叔母がこの学校の教師だったり、親戚のK先生が12年間も校長だったりした関係で、就学前からよく遊びにいったが、さすがに学校に泊まったことはなかった。なんのきっかけか忘れたが、3年生のとき、担任のM先生の宿直に合わせて泊めてもらう話がまとまった。

M先生は、マンガ「ど根性ガエル」に登場する町田先生を少しだけ小柄にしたような方だ。ちゃんと鼻の下にちょび髭もたくわえている。怪談話が得意で、少しくぐもった話し方に何とも言えない味がある。話法は単純明快、山場にくると一瞬言葉をとめてみんなを集中させ、全員が息をのんだとみるや「ワッ!」という思いもかけない大声をあげて聞き手をぎょっとさせる。それと同時に、トレードマークの皮製スリッパで木の床を激しく踏み鳴らすのだ。通常の話し声と「ワッ!」の落差がすこぶる大きい。野球で言えば、投手のスローボールがゆるいほどストレートが速くみえる、というあれだ。だれもが先生の技法を熟知していたから「さあ、そろそろくるぞ。」と身構えるのだが、それでもやっぱり一瞬の沈黙のあとにくる「ワッ!」にぎょっとし、そして喜んだ。

夜、懐中電灯をもって見回りするM先生のあとをついていくと、古い木造校舎の表情が私の知っている昼間の校舎とまるで別物だった。階段のギシギシする音が踊り場に響き、廊下を歩くと大きな暗い筒がどこまでも伸びているような錯覚を覚えた。ひとあたり仕事を終えて体育館に戻り、M先生と二人で跳び箱を飛んだ。明かりのとどかない闇に囲まれているせいか体育館がいつもよりずっと大きな建物に思えた。

翌朝、先生のつくった味噌汁をいただいて家に帰った記憶があるから、おそらく土曜日か夏休みの夜のことだったかと思われる。

 

雪国の身体-相撲

きのうの運営委員会でこのブログが話題になった。ゆるさ加減がちょうど良いという意見から、もっとはじけて欲しいというものまで、コメントに幅がある。アップの仕方については、文章を小分けにして続き物にしたら、ケータイでも読みやすいし回数も稼げるのでは、というアドバイスも頂戴した。参考にさせていただきます。

半年近く雪にふりこめられる生活がやっかいだというのは確かだが、子どもはどんなところでも楽しみをみいだして暮らしている。また雪との暮らしが、北国の子ども特有の身体性を生んでいるように思う。

私の村の冬のスポーツの代表がスキー、そして相撲だった。秋田はとりわけ相撲の盛んな土地柄で、村には草相撲の力士がたくさんおり見巧者も多かった。初代若乃花や輪島などの横綱を育てた花籠親方(元力士・大ノ海)が地元小学校の出身ということもあって、小さい頃から新聞の星取表を欠かさずチェックしていた。当時、土俵の鬼・若乃花、褐色の弾丸・房錦、潜航艇・岩風、起重機・明武谷など味のあるお相撲さんがたくさんいたが、わたしは未完の大器と呼ばれた花籠部屋の若三杉(大豪)がひいきだった。大豪関には失礼だが、必ずしも大スターでない人を応援する志向がすでに当時からあったようだ。

冬になると集団登校の時間を早めて体育館に向かい、床に引かれた円を土俵にみたてて集落対抗戦をするのが日課だった。複数の試合が同時進行で行われるため、始業前の体育館がいつも熱気と喚声につつまれる。1年生同士の取組からはじめて6年生まで勝ち残りで土俵にあがるのだが、どうかすると下級生が3人抜きくらいすることもある。ヒートアップした年などは、近所の空き地に雪を積み上げ、それを踏み固めて本物さながらの土俵を築き、休日も練習に励んだりした。

勝ったり負けたりを6年間も繰り返すわけだから、重心の置き方など自然に工夫するようになる。子どもたちは押し相撲や四つ相撲など、それぞれ自分の相撲の型をもつようになるのだが、どんな型に落ち着くかはそれぞれの体格や敏捷性に規定されていた。私のばあいは四つ相撲に磨きをかけた。

得意技は右下手投げである。できるだけ重心を低くたもち相手の身体を持ちあげるようにして投げをうつ。これでも十分に効果があったが、やがて変則的な二丁投げを体得する。こんな具合だ。まず、右下手から相手の左足をはねあげ、相手が右足一本で重心を支える状態をつくる。そして相手の左足がまだ空中にあるうちに、支え足をもう一度素早くこちらの右足で払うのである。もともと小柄で重心が低かったこともあり、自分より体の大きい上級生にこの技がことに有効だった。5、6年生にかけて体が大きくなると、とうとう敵なしになった。中学校にあがってからまったく相撲をする機会がなくなったが、いまでも大相撲観戦が私の楽しみの一つである。

野球、剣道、柔道、バレーボール、ラグビー、水泳、テニスなど色々なスポーツに親しんだが、私の身体技法の基本をつくったのはなんといってもスキーと相撲である。

 

方言とラジオ (2)

編集部の山本さんの初仕事だった

ずっと後の話だが、方言とラジオについてちょっとしたエピソードがある。1989年の春にICU高校に在籍する25カ国・87名の帰国生たちの教育体験を集めた本『世界の学校から―帰国生たちの教育体験レポート』(亜紀書房)を出版したときのことである。

第1章:学校生活、第2章:授業・テスト・受験制度、第3章:体罰・校則・管理主義、第4章:教師と生徒、生徒と生徒の人間関係、第5章:家庭・社会・学校という構成の本だ。管理主義的な日本の学校の常識とはかけ離れたエピソードが満載ということで、朝日新聞やNHKの国際放送などいろいろなメディアに取り上げられた。

8月になって、野沢那智、白石冬実のお2人がキャスターをつとめる民放のラジオ番組の担当者から電話があった。お昼の番組で本を紹介したいというのだ。受験生時代に那智チャコの「パックインミュージック」に親しんだものとしては感無量、むろん異存のあるはずがない。出版社も大喜びで、放送後のリスナーからの問い合わせに備えることにした。

NHKのスタジオ-スポーツ中継で活躍の福島アナと

職場でその話をすると、言葉にくわしい斉藤和明校長(ICU教授 シェークスピア研究)と日本語科のIさんが「渡部さんの発音やイントネーションに秋田弁の影響がどのくらいでるか判定しようじゃないか。」という話になった。

当日、スタジオと研究室の電話をつないで紹介コーナーが始まった。本に登場するエピソードをまずチャコちゃんが読み上げ、那智っちゃんの質問に答えて私がコメントする。そのパターンを何度か繰り返したのだから、けっこう時間をさいてくれたようだ。さすがと感じたのはお2人の軽やかなリズム感、それにのって思いのほか楽しくおしゃべりできた。

放送後の、斉藤さん、Iさんの判定は、「秋田弁のニュアンスはほとんど感じなかったね。」ということで一件落着。ただし、リスナーの反響ははかばかしくなかった。くだんのコーナーが高校野球の決勝戦しかも最終回の攻防の時とピタリ一致してしまったせいで、まったくの空振りに終わったのだ。

このときばかりは幸運と不運が一緒にやってきたような気分だった。

 

方言とラジオ (1)

秋田の学校 桜の下のランニング

私の生まれた東北地方は高度経済成長を支えた労働力の供給源の一つである。「若い根っこの会」の活動などがよく新聞で取り上げられていて、春になると集団就職列車の出発が大きなニュースになる時代だった。おもな就職先は首都圏の中小企業や中京圏の紡績工場である。いまでこそお国言葉の面白さが喧伝されているが、都会にでる若者の方言コンプレックスが深刻な問題だった。

私の村の小学校も「標準語」指導に熱心だった時期がある。例の方言札というのではないが、「カード集め」とでもいったらいいのか、うっかり方言を話してしまった子が手持ちカードを相手に渡し、帰りの学級会でそれぞれのカードの数を点検する方式がいっとき導入されたりした。いまおもえば、標準語推進のモデル校か何かだったのかもしれない。それほど一生懸命だった。

高学年になるころNHKラジオのインタビューがあった。呼ばれた子どもは3人で、あとの2人は上級生の女の子である。音楽室にいくと、放送局の人がオープンリールの立派なテープレコーダーをセットしている。ちょっとした会話でわれわれの気持ちをほぐしたあと、アナウンサーと思しき男性が、順番にマイクを差し出してくる。子どもの口からでる標準語をとるのが目的だから、話題そのものはたわいないものである。ただ、目の前のマイクが思いのほか大きくて緊張するうえに、「標準語でしゃべる」というプレッシャーがさらに緊張を加速させる。

痛恨事は、本番で1か所訛ったことである。「しまった。」と感じたが後のまつり、失敗がひどくこたえた。家に帰って家族に打ち明ける気にもならない。できれば翌日の放送をパスしたい気分だったが、いやいや聴いてみると、なんと訛ったところがでてこないではないか。じょうずに編集されていたからだ。憂鬱な一晩をすごしたあとだっただけに、すっかり拍子抜けしてしまった。

そんな屈辱体験はあったが、小さい頃からラジオを聴いていたのが耳の訓練になったらしい。小学校をでるころには、状況に応じて方言と共通語をそれなりに使い分けるようになっていた。統合中学にあがると、後に親しくなった別の小学校出身のWくんから「入学したてのころ、東小の出身で標準語を話すやつがいると聞いて教室を覗きにいったよ。」と聞かされたから、知らないうちに見物の対象にされていたことになる。

中学3年生のとき警察署が主催する防犯弁論大会にでることになった。迷わず、秋田から東京に就職した若者が職場の仲間から方言をからかわれ、それが引き金になって自殺した出来事をテーマに選んだ。もちろんこれといった対案があるわけではない。しかし、事件の理不尽さを告発せざるをえないやりきれなさを感じたのである。

この方言の問題もそうだし、高度成長にとりのこされていく農村の跡取りに生まれたということもそうだが、少数者の視点から、戦後社会の光と影の両方の側面を同時に見る、ということが自分の中で身体化されていくことになった。

思いがけず湖東地区大会で優勝し県大会に進んだときは、隣町のパトカーが、自宅から秋田市内の会場まで送迎にきてくれた。

井伏鱒二―私の好きな作家

生家の空

高校3年生の担任だった国語の山岡雄平先生は、カラーシャツにネクタイ、低音の落ち着いた物腰の先生である。萩原朔太郎の詩「竹」の授業でいっぺんに朔太郎ファンになったから、孫の萩原朔美さん(多摩美術大学教授)と東放学園の「ドラマケ―ション」普及プロジェクトに関わるようになったときは嬉しかった。

そして山岡先生が授業で取り上げた井伏鱒二の小品「「槌ツア」と「九郎ツアン」は喧嘩して私は用語について煩悶すること」(初出1937年)が、私のものの見方を大きく変えた。題名こそ長いが、本文は筑摩書房版『井伏鱒二全集 第六巻』(1997年刊行)でわずか7ページの作品である。

井伏の郷里では、名前の呼び方が「××サン」にはじまり「××ツアン」「××ヤン」「××ツア」「××サ」まで五つに区別されていた。井伏はこれを用語の階級的区別と表現している。作品の主要人物は、村会議員「槌ツア」と村長の「九郎ツアン」である。「槌ツア」は人から「××サン」と呼ばれたいという希望をもっている。その「槌ツア」が、あるときの会合で「九郎ツアン」から「槌ツア」と呼ばれたことに激しく抗議する。「満座のなかで人を呼び捨てにしたのう。」と喰ってかかるのである。それに対して村長「九郎ツアン」が「槌ツアと言ったが悪いかのう。」と反問したことから大騒動がはじまる。家族をあげての確執、村中をまきこんでの批評合戦、ヒートアップした対立はたんなる呼び方の問題にとどまらず、「槌ツア」の家が大阪弁、「九郎ツアン」の家は東京弁をそれぞれ会話に導入して互いに対抗するにいたる。

農村社会の根強い階層性とそこに暮らす人々の心理の綾をみごとに描いた作品、「これは私の村のことだ。」と感じた。まとわりつくように濃密な人間関係、「世間の目」という名の圧迫感をどう克服するのか、それば農家の跡取りに生まれた私の切実なテーマだったのだ。当時の村では、農村特有の相互扶助システムがまだ機能していた。飛騨高山の結ほどの規模ではないが、萱葺屋根の葺き替えがあると集落中から50人もの人が集まってそれは賑やかなものだった。そうした関係に居心地良さを感じる自分がいる一方で、同じ自分が何世代にもわたる地縁・血縁に息苦しさも感じていた。

文体、構成の見事さはおくとして、なによりうたれたのは作品世界と作者本人との絶妙な距離感である。槌ツアにしても九郎ツアンにしても登場人物たちはそれぞれに必死だ。たしかに必死なのだが、彼らが必死に行動すればするほどその言動がユーモラスに見える世界でもある。こうした世界を外部の眼で批評することはたやすいだろうが、けっして厚みのある作品にはならない。井伏は、作品世界の真っ只中に幼少の「自分」と祖父を登場させ、状況を丸ごと相対化する視点で描いている。そこにこそ「私の世間」を克服する視座があるような気がした。

後年、福山市から福塩線に乗り万能倉駅で下車し、井伏の郷里の旧加茂村大字粟根(現・福山市加茂町)までタクシーを走らせたことがある。駅をでてしばらく走ると、徐々に谷筋が狭まっていき、周囲の山が間近かに見えるころに粟根集落についた。大きなお地蔵さんがすわる道端から斜めに急坂を登るとちょっとした高台で、その上に室町時代から続く井伏邸がある。散在する瓦屋根がひろがる風景は、私の郷里にくらべるとずっと歴史の厚みを感じさせるものだが、そうではあっても、井伏作品に登場する眼前の農村風景と遠くに俎板山を見晴るかす郷里の風景が、私にはどうしても二重写しになってみえてくる。

作品の末尾近くに井伏が「「オトツツア」「オカカ」「オトウヤン」「オカアヤン」「オトツツアン」「オカカン」という用語は、百年たっても消え去らないように思われた。」と書いている。私の郷里では、用語改革も生活改善運動のテーマだったはずだが、1960年代にいたってなお呼び名の階層性が明瞭だった。詳しく調べたことはないが、本当に用語が変わったのは戦後世代の夫婦が子どもに「パパ、ママ」を使わせるようになってからではないだろうか。当時、村の子どもはお互いを呼び捨てにしていた。なぜか私が屋号で「かぶらの淳チャ(ちゃん)」と呼ばれていたため「チャ」を名前の一部だと思いこんでいる子どももいて、ときどき丁寧な言い回しで「淳チャちゃん、いるべか(いますか)。」と訪ねてきたりした。

この作品との出会いを期に、透徹した作品世界に長く親しんできた。彼の交友関係をたどり青柳瑞穂の『ささやかな日本発掘』や『壺のある風景』なども読むようになった。生前の井伏に会ったことはない。告白すると、荻窪清水町の井伏邸の前までいってみたことはある。丸い穏やかな風貌から、酒の飲み方、旅の仕方にいたるまで、井伏鱒二は私にとって成熟したオトナのモデルであり、それはどこかで私の祖父のイメージにつながっている。